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屍喰い蝶の島 三月二十二日③

 夜須がこの島に残る理由の一つ、いや、重要な理由はシジキチョウだ。鍾乳洞に入って、シジキチョウの卵か幼体を見つけようと思っていた。しかし、完璧に塞がれた入り口を見ると、非常に落胆した。

 それにここに交野がいるかもと思ったこと自体謎だった。いや、交野を見つけてどうするというのだ。交野がシジキチョウの住処を知っているとは思えない。知っていれば、夜須に最初に教えてくれるだろう。夜須がどんなに蝶に対して憧れを持っているか、夜須の近くにずっといた交野には分かっているはずだからだ。

 夜須は念入りにライトで石壁を照らしながら、どこかに欠陥はないかと探し続けた。

 それにしても、何故島民はここまで完璧に塞いだのだろうか。何を隠したのだろう。いや、もしかすると、こちらに来ないようにしたのか。

 スマートフォンの電池残量が半分になったとき、ようやく夜須は入り口を探すのを諦めた。他に確かめたい場所がある。惣領屋敷だ。あそこにはきっとシジキチョウについて書かれた文献がある気がする。どっちにしろ明日帰るしかなくなったのだから、残りの時間を有効に使わないともったいない。

 夜須は、手すりに掴まりながら、遊歩道を上下左右に、案内板通りに道を辿りながら山を下りた。

 すっかり夜の帳が島全体を包んでいる。ライト無しでは先も見えないくらい真っ暗だが、儚い月明かりに照らされて、ようやくものの形だけが黒く浮き上がっている。

 遠い空の彼方にある恒星も青白い光を放っている。空一面にぶつぶつと針で穴を開けたように星が密集し、ぎらぎらと輝いている。天の川もはっきり見えるほど、地上は暗い。

 足下もおぼつかない中、夜須はその足で惣領屋敷を目指した。


 石段を登り詰めた場所に惣領屋敷はある。

 門扉には電灯も点いていない。昨日訪れたままの荒れた空き家だった。交野はここで何を思って夜須を待ったのだろう。昔の仕返しをするつもりだったのだろうか。開け放たれた揚羽紋が焼き付けてある門扉を潜り、玄関の引き戸を開けて呼ばわるが誰の声も返ってこない。やはり空き家なのだろうか。夜須は土足で上がり込み、一部屋一部屋確認して回った。屋敷の中は闇に包まれて外よりも一層暗く見通しが悪い。

 夜須はスマートフォンのライトをつけて、辺りを照らし出した。

 シジミチョウの手がかりがあるかも知れないと思って、家具の引き出しを開けて探ってみるが、服一着も残されていない。あったとしてもゴミばかりで、もぬけの殻だ。辛うじて台所の調理器具や食器だけが残されている。

 座卓に食器類がそのままの座敷に入ると、掃き出し窓が開け放たれていた。

 闇に染まって黒ずんだ、ひらひらと赤い紙吹雪のようなものが飛び散っている。締め殺しの木に群がっている赤い蝶を見つけて、夜須は思わず叫んだ。

「シジキチョウだ!」

 それまでの恐怖心を忘れて、夜須はスマートフォンのライトからカメラ機能に切り変えて、まるで繭玉のように丸く渦を巻きながら舞うシジキチョウを画像に収めた。一、二枚では足らず、何百枚とあらゆる角度から撮り収め、さらに近づく。密集したシジキチョウが、球体状に飛びながら次第に人型へと変化する。

 夜須は写真を撮ることに無我夢中で、シジキチョウがまるで人のように寄り集まったことに気付かなかった。

 どんな画像を収めても、今度こそ削除などしないと心に誓っていた。人型の蝶がまるで首吊り死体のように締め殺しの木にぶら下がって見える。それがどんなに異常なことなのか、蝶しか見ていない夜須は気付けなかった。

 蝶の翅がつまめるほど、翅の柄も見えるくらい目の前にシジキチョウがいた。夜須はまじまじと観察する。赤い翅には斑点模様があり、紋様だけならゴイシシジミに似ていると判断した。大きさもゴイシシジミと同じで、約二、三センチほどだ。翅が開いたときに見える面が赤いのは理解できる。しかし、ほとんどの蝶は裏の面は違う色柄になっている。シジキチョウは珍しいことに、翅の表裏が赤く、同じ模様なのだ。

 雌雄同じ模様なのか、前翅と後翅の形は……、とせわしく目玉を動かして、夜須は観察した。

 昆虫採集の道具を持ってくれば良かったと後悔したが、もう遅い。ここで引き返して道具を持って戻ってきたら、すでに蝶はどこにもおらず、いなくなってしまったと成りかねない。とにかくスマホで画像を撮って、翅を台無しにしてしまうかも知れないが指でつまんでみようと思った。

 片手をそっとシジキチョウへ伸ばす。簡単に翅がつまめたと思ったのもつかの間、指の中でもがいていた蝶がとろりと蕩けて形を失い、夜須の手に赤い血液のような液体が残った。慌てて手を払って液体を飛ばす。どう見ても血液にしか見えない雫が辺りに飛び散った。

 夜須は言葉を失い、後退あとずさる。驚きに心臓がぎゅっと縮み、思わず荒く息を吐く。

「嘘だろ……」

 そのときになって、ようやく夜須はこれが異常なことだと気付いた。

 締め殺しの木に密集していた人型の首が動き、夜須のほうに顔を向ける。目も鼻も口もない、顔の部分は消失して黒く吸い込まれそうな闇が存在している。それが自分を見ていると確信した。

 シジキチョウが寄り集まっていたが、一旦散り散りになったと思うと雲霞のごとくいくつかの塊に凝り、次々と傍らにある井戸の蓋の隙間へと吸い込まれていく。

 思わず、蝶とも呼べない存在の跡を追い、夜須は竹の覆いを剥ぎ取った。交野が塩害に侵された井戸だと言っていた。強烈な糞尿の腐った臭いが辺りに漂う。この悪臭を粗末な竹の蓋だけで防げたのかと驚いた。刺激臭に鼻を押さえて、竹の蓋を地面に放った。

 井戸の中を見て、夜須は言葉を失う。そこには無数の首があった。皆、ドロドロに腐った肉が剥がれ落ち頭蓋骨が剥き出しになっている。

 夜須はあまりの悪臭と衝撃で吐いた。何度も嘔吐えずきながら、なんとかカメラ機能からライトに切り替えた。

 鼻を押さえつつ井戸の中を照らすと、やはり首が浮いている。幻ではなかった。その中に長い黒髪の女らしき首があった。じっと見ていると、少しずつ首が仰向けに動き、端正な顔を露わにした。ごく最近の死体なのか、これだけ腐らず残っていた。それとも、屍蠟化して何年もここに浮いていたのか……。

 口元を左手で押さえながら、ライトで首を照らし出す。女の首がゆっくりと上を向いたと思った途端、カッと目を見開き、目玉だけ動かして夜須を見た。

 夜須は見覚えのある顔にどっと冷や汗が出た。夢に見た女だ。端々しか思い出せなかった夢の断片が鮮明に蘇る。ありえないことだと、夜須をたたきのめした。

 八百年以上昔だぞ! あるわけがない! 首なんかとっくに腐っちまってる! なんでだ!? 何でてふの首がある!?

「う、わ……、あ、あああ……!」

 夜須は何度も声を上げる。腰が抜けて尻餅をつき、そのまま井戸から離れようともがいた。もがきながら後退ったとき、背中に柔らかなものが当たった。とっさにチラリと背後を見ると、赤い打衣の裾が見えた。

 赤ん坊の声が聞こえ始める。やはりむずがる声で、か細く泣いている。

 不意に両肩を掴まれた。傾けた首を戻せないまま、肩を掴む手を見た。白い血の気のない、女の手が肩に乗っている。

 赤ん坊の声が近い。すぐ間近で聞こえてくる。息もかかるほど近い。とても近い。近い。近い。近い。

 もうすぐ耳たぶに唇が付く、と夜須は反射的に目をつぶった。すると赤ん坊の声が止み、すぐに女の低く唸るような声音が、「夜須……」と囁いたと思った途端、耳が潰れそうな程の大声で、赤ん坊が泣いた。

 とっさに振り返る。誰もいない。しかし、確かに声を聞いた。この数日、夜須の耳元で囁き続けた声だ。

 女の口が、赤ん坊の泣き声を発していたとしか思えないほど近かった。

 あれはてふだと確信する。揚羽だと言われた女はてふだ。てふは最初から夜須のことを見ていた。夜須がこの島に、シジキチョウに執着するのを知っていた。と言うことは交野は利用されていたのか? 交野は生きているはずだ。怨霊に騙されて自分をはめたのか、と夜須は震えながら考えた。

 交野は決して死んでない。存在している。存在していなかったら、夜須は自分の身に起こった全てを認めないといけなくなる。

 それだけではない。

 この志々岐島にとぐろを巻く悪意も認めることになる。和田津に巣くう怨念と因業も。

 わざわざ、島外から人を呼び込み、和田津の民から選ばれていた贄を、和田津の地を踏んだ観光客から選ばせる。御先様は行き逢った贄を海に牽き、シジキチョウが肉を食い、女神に捧げ、和田津の民は恩恵にあずかる。

 それが延々と繰り返される。

 交野がいないことを認めると、その因業が存在することになる。

 贄を差し出さなければ災厄が来ると言う言葉が本当だったと認めてしまうことになる。

 交野家最後の一人、雅洋を御先様が祟り殺して滅亡させた。その体はてふが女神に誓ったとおり、女神に捧げられた。それを受け入れてしまうことになる。

 交野は絶対に死んでいてはいけないのだ。

 死んでいないのであれば……、どこかに交野はいる。

 夜須は体の向きを変えて、四つん這いになりながらも惣領屋敷の門扉へ、死に物狂いで駆けていった。背後から赤ん坊の声が追ってくる。けれど、門扉を潜り転がるように石段を下りると、やがて声は小さくなって聞こえなくなった。

 夜須はもつれる足で石段を駆け下り、港まで出てきた。何度も後ろを振り返って、てふが追ってきてないか確かめた。

 幽霊や怨霊などと言う超常現象など、存在しないと信じたい。今は存在を否定することで、自分の身に起こったことがなくなるのではないか、と考えようとしている。否定しなければ、和田津の恐ろしい側面を認めてしまうことになる。シジキチョウが存在すると信じなければ、得体の知れないものが身近に息づいていると認めなければならない。

 この島に、最初に来た時の興奮が、乾燥してもろくなった土のように手の中で崩れていく。蝶に自分の名前を名付けるのだという憧れもが、跡形もなく叩き潰された。

 それなのに、まだシジキチョウに執着している自分がいる。シジキチョウが溶けてなくなってしまったのは腐乱した死体の臭いが自分に見せた幻覚かも知れない。

 蝶が人型に集合して夜須に襲いかかるなど、ありえない。

 締め殺しの木に何かがぶら下がっていたのを見て、ショックでありもしない幻覚を見たのか。あの人型の何かは蝶ではなく、人間だった可能性もある。

 井戸の中を見たあと、夜須は締め殺しの木を確認しなかった。名前を呼ばれたと思い込んで、みっともなく逃げ出した。

 しかし、屋敷に一人で戻って確かめるのは、とてもじゃないが出来ない。その反面、あれが全部幻覚だとしても、自分だけが見たものだと思いたくない。だれかに見せて、自分が見たものが幻ではなく現実だと証明したい。

 締め殺しの木にぶら下がっていた人間と、井戸の腐乱した首を見て、錯乱して蝶が人の形を取ったという幻覚に惑わされたのだ。

 本当に人間が首を吊っていて、井戸の首も海難事故で亡くなった人間のものかも知れない。まさに二十二日の夜に起こった悲劇の犠牲者の首なのだろう。

 女の首もたまたま目が開いたのだ。腰を抜かすほど驚いて、背後に人がいるように勘違いしたのだ。錯乱すれば誰しもありもしないことが、本当にあったことと勘違いする。自分もそれだったのだ。

 だとしたら、夜須はこのことを島民のだれかに知らせる義務がある。全て自分の幻覚でないとしたら、確実に死体はある。

 島民に知らせて、案内するために惣領屋敷に戻るのは厭だが、こうも考えられる。

 交野が夜須に当てつけで、自殺したのだ。ただし、祟られて死ぬという解釈は困る。

 一年前、夜須は交野の性的指向をゼミの仲間に言いふらしてあざ笑い揶揄した。交野は研究生になりたくて院に進んだが、夜須の行いに酷く傷つき、院を中退して故郷の島に戻った。志半ばで夢を諦めたのだ。

 夢を奪われて、交野は夜須を恨んだろう。夜須からしてみれば、そんなつまらないことで傷ついて、当てつけで自殺する奴のことなど同情しようもない。勝手に死んでくれ、と思った。

 夜須に復讐するためにシジキチョウを餌にして、この島に夜須を招いて、挙げ句自殺した。もしそうなら、たちが悪い。病的だと思った。

 交野は夜須に復讐したくて、まるで消えてしまったかのように見せかけて山かどこかに隠れ、日が暮れた頃合いに締め殺しの木で首を吊ったように見せかけた。

 どうやって幻覚を見せたかまでは分からない。超常現象だと思わせて、夜須の感覚をおかしくしたのも交野だ。

「俺は引っかからないぞ……」

 言い放ったあと、鼻で笑った。

 みっともない格好で石段に座り込んでいたが、落ち着きを取り戻して土を払いながら立ち上がった。

 どうやったかは知らないが、夜須を震え上がらせたのだから、交野の復讐は上手くいったのだろう。

 種を明かしたらなんと言うこともない。みっともなく逃げ惑った自分が恥ずかしく、そうさせた交野を憎いと思った。

 民宿かんべに戻り、夜須はかんべの親父に惣領屋敷でのことを話して、首と死体の確認をしてもらおうと決めた。

 できるだけ大勢で確認してもらい、自分の考えを肯定して欲しい。恐ろしい幻覚は全て夜須の勘違いだったと証明してもらいたかった。

 

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