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屍喰い蝶の島 三月二十一日③

 夜須は自分の背丈より高い洞窟の内部に入っていく。袋からライトを出し、中を照らす。洞窟だからとても暗いと勝手に想像していたが、意外と天井から光が漏れて内部に差し込んでいる。内部の壁面にはいつもどのくらいの水位まで海水が来ているのか一目瞭然だった。もし満潮になれば、水位は夜須の背丈より高くなる。確実に溺れてしまうだろう。

 足下を見ると、外にある岩場と違い、小さいながらも岸がある。砂浜の白い砂は、貝が摩耗して砂状になったものだろう。鍾乳洞が貫通してできたと言うだけあって、砂に埋もれた石筍せきじゅんがあちこちに形成し、洞窟の奥まで続いている。ふと石筍の根元に人工的な四角いものを見つけた。

 四方二十センチほどの石の箱状のものだ。それが横倒しになっているように見える。

「それが蛭子神の祠ですよ」

 突然背後から声をかけられて、夜須は飛び上がらんばかりに驚いた。

「祠……。綿津見毘女命じゃないのか」

 トレーナーが夜須の様子を伺いに来たのだろう。

「蛭子神だと思いますよ」

 この祠の本来の祭神が綿津見毘女命だと言うことは一般的に知られていないのだろうか。

「ここに二十二日になったらひるこさんが上がるって聞いたけど」

 すると、トレーナーは困ったような笑みを浮かべた。

「他のお客さんには言わないで下さいね」

 あまり触れてほしくない話題だったらしく、ちょうど良く呼ばれたのをいいことに、トレーナーは夜須から離れていった。

 仕方なく夜須はカメラのレンズをあちこちに向けて写真に収め、足下にある小さな祠も何枚か同じ角度から撮った。写真を撮りながら、祠の中をレンズを通して見てみたが、やはりご神体というようなものはなかった。

 シジキチョウの痕跡を探してみようと、鍾乳石の陰などを見て回り写真を撮ったが、卵も幼体も何一つなかった。

 もちろん、二十二日前だからか、死体が流れ着くと言った事件も起こらなかった。

 気が削がれて落胆したが、とりあえず撮った画像を見返してみる。

 ほとんどの画像に白い玉状のものが入っていて、画像としては最悪だった。物好きはこれをオーブと呼ぶらしいが、たいていは空中を舞う埃や湿気の多い場所での小さな水滴、もしくは細かな水しぶきがこのような形で捕らえられるのだという。

 もちろん夜須もこれは自然現象であって、オカルトの範疇ではないと考えている。

 かなりレンタル料金も高額で、性能も悪くない製品なのに、撮る写真全て失敗では意味がない。

 何度か撮り直してみたが、結局同じで、あとで店主に文句を言ってやろうと決めた。

 ただ、不思議だったのは、祠を撮った画像だけが自棄に手ぶれを起こしていたことだ。祠の石だけが激しくぶれて、背景の鍾乳石ははっきりと映っている。それ以外はオーブが映っていたが、碧の洞窟に入る前に撮った写真はきれいに風景が撮れていた。祠の画像は特に気味が悪かったのもあり、よく確認せずに次々と削除した。なんだか記録媒体に保存しておきたくなかったのだ。

 これらの画像は、カメラではなく、場所に問題があったのかも知れない、と言う考えが頭をもたげる。その考えを振り払い、夜須は洞窟の奥へ向かった。

 奥へ入れそうだが、腹ばいにならないと通れない穴しかなかった。碧の洞窟の内部は、漏斗のような形になっているのだろう。この狭い穴の向こうに行けたら……、と夜須は歯がゆかった。碧の洞窟に、シジキチョウの幼体や卵がないのならば、鍾乳洞側に生息場所があるのだ。どうにかしていけないかと屈んでみた。

「それではみなさん集まって下さい。そろそろ水位が上がり始めますので、ボートに戻りまーす」

 ガヤガヤと観光客が集まり、次々と洞窟を出て行く。確かにくるぶし位の水深だった海水が、今ではすねにかかっている。

 夜須は後ろ髪を引かれるような思いで碧の洞窟を跡にした。


 アクアマリンに戻り、夜須はカメラのことでクレームをつけようか迷ったが、肝心の画像を削除してしまったので文句をつけるのはやめた。気分的に蒸し返すのが嫌だった。不吉なものを見た気がしたのだ。

 その代わり、今日明日泊まれる宿はあるか、店主に尋ねてみた。

「かんべがここらでは広いからかんべですかねぇ。かんべが駄目なら大浦まで行くしかないです」

「かんべが駄目なら大浦か……」

 午前中に訪問した民宿かんべのことだろう。和田津では一番大きな民宿なのか。できたらかんべが空いていると助かる。明日、和田津でシジキチョウを捜すのには和田津に滞在したほうがいい。

 しかし、惣領屋敷に戻って宿泊する気にはなれない。きっと、当てつけのつもりで子供を作ったのか、と交野を罵るだろう。好きでもないのに、自分はきっと交野を責めると思った。何があったとしても自分の元に戻ってくることに優越感をくすぐられるから、今回電話があったことに満足を得たのだ。それなのに、自分を崇拝する人間が、こんな形で離反していくのを見せつけてきたことが気に入らなかった。


 民宿かんべの引き戸を開けて中に入ると、店に中はしんと静まりかえり、客ははけていた。奥にいる親父が、「もう店じまいしたぜよ」と大きな声を上げた。

「あの、宿泊したいんですが……」

 調理室と民宿の廊下と繋がっているのか、親父は奥に向かって、おかみさんを呼び続けた。

「おい! お客さんだぞ」

 そのうち、「はいはーい」と廊下を足音を立てて、おかみさんがやってきた。

「あら、えーと夜須、さんやったか。どうされたがか?」

「泊まりだとよ。いつからいつまで?」

 親父が間に立って夜須に訊ねた。

「今日から二十三日迄です」

「二十三日だってよ」

「はいはい、聞こえちゅーがやき言わいでも大丈夫よ」

 おかみさんが台帳を持ってくるといって引っ込んだ。親父が上がれ上がれとせっついてきたので、促されるままに靴を脱いで家内に上がった。

「空いちゅーぜよ。素泊まり? 三食付き?」

「じゃあ、三食付きで……」

「はいはーい、じゃあ、部屋に案内するわね。鍵かからんき貴重品は自分で管理してね。部屋に鍵がかかる金庫もあるわよ。布団は自分で敷いてね、夕飯は十九時やき。食堂に下りてきて。お風呂は一階にあるき、二十三時までに入って。シャンプーリンス、ひげそりは有料。フロントに買いに来とーせ」

 おかみさんは早口でまくし立ててながら、夜須を二階に案内した。

 部屋は二階の角部屋で、二面に窓があった。古いい草の匂いがする。畳は黄ばんでいたが、清潔そうだった。ぺたんこのざぶとんと小さな座卓が部屋の真ん中に置いてあり、部屋の角に十七インチの液晶テレビが置いてある。テレビ台の中に金庫があった。

 十九時に食事らしい。窓の外を見ると暗闇が差し迫っている。腕時計の針は十八時半を指していた。

 昼間に海に入り、海水を軽く水シャワーで流したきりなので肌がベタベタする。風呂に入りたかったが、先に食事をするしかない。部屋にはトイレと洗面台なく、その代わり、二階の廊下に共同トイレと洗面台が設えてある。とりあえず、食事を済ませ、風呂に入ったあとに今日起こったことを改めて考えよう。

 夜須は疲れ切ったため息をついて、荷物の整理をした。きちんと畳まれたTシャツと下着を用意しておき、階下の食堂へ行った。


 夕飯のあと、早めの風呂を済ませた。フロントへ行き、ビールを購入する。

 一日が終わり、何も収穫がなかった。夜須はくさくさした気分を抱えたまま、部屋で酒盛りをするつもりでいた。畳に腰を下ろしてあぐらを掻き、缶ビールを二本、座卓に置いた。役に立っていない薄い座布団を二つ折りにして尻の下に敷いた。それでもあまり意味がない。

 リモコンでテレビをつけても数週間遅れて放映された番組が映し出された。チャンネル自体三局しかなく、つまらないローカル番組しかやっておらず、電源を切った。


 交野は暗い男だった。陰キャでも顔がいいので、とりあえずそばに置いておいて女子を釣ると言う役どころでもあった。

 しかも合コンの数合わせで呼んでも、群がる肉食系の女子達を相手にしないので、客寄せパンダとしてうってつけだった。

 彼への扱いは誰もが雑だった。

 夜須が交野を知ったのは、院生になってすぐだった。たまたまみんなが回し書きしていたノートを貸してもらったときに、そのノートの持ち主が交野だと聞かされた。

「完璧だな、いやロボかな、このノート、教科書並みじゃねぇか」

「このノートがないとなぁ」

 夜須の言葉にケタケタと同じゼミの連中が笑う。

「それにしても明日試験だろ? 返さなくていいのかよ」

「大丈夫、大丈夫。交野はノート見なくても最高点たたき出すヤツだから。ノートくらい貸したって困らないさ」

 そんなふうに交野が友人だと思っている奴らが笑う。貸せと言われて貸したノートが、交野の元に戻るのは、いつも試験が終わったときだった。

 それを交野は少しも気にしておらず、困ってもいないようだった。試験の結果も悪くなく、ノートに書いたことを必要としていない。

 夜須は頭のいい馬鹿が好きだ。勉強ができるくせにそれが実生活に役立ってない。交野はまさにそれだった。頭はいいが、押しに弱いのか優柔不断なのか、物静かで口数も少なく、人の言うなりだ。何を言われてもうっすらと微笑んで成されるがままだから、それすらも馬鹿にされていた。

「交野、おまえ、いつもそんなんじゃ、連中に馬鹿にされるぞ」

 友達面して忠告もしてみた。

「いいよ、気にしちょらんき」

「そうなのか? おまえが馬鹿にされるのは、いい気分じゃないなぁ」

 交野に目をつけ人なつこく彼に近づき、行動を共にした。そんな夜須に交野も気を許したのか、次第に打ち解けていったように思う。

「友人が馬鹿にされると腹が立つよ」

 まるで中学生の親友ごっこのように言い続けた。周囲にいる連中と交野が同じ性格だったら、そんな子供だましを信じることなどなかっただろう。

 しかし、交野は夜須が思う以上に孤独だったのだ。夜須の言葉に交野はまんざらでもない表情を浮かべる。今思えば、それは少女のような恥じらいだったのかも知れない。

 なんでも受け身の交野を、夜須はかなり気に入っていた。交野を何でも言うことを聞く犬と同じ感覚でそばに置いた。交野がどんな気持ちでいたのか、夜須は考えたこともなかった。

 二人とも同じゼミだったので、似たような傾向の研究をしていたせいか、交野はよく自分の論文を夜須に試読してもらっていた。

「いいんじゃないか? 俺もこんなふうに考えていたしな。冴えてるな、おまえ」

 夜須の言葉で嬉しそうに照れているのを見て、気持ち悪いヤツだと思った。交野が喜びそうな言葉を吐いて、徐々に距離を縮めていくのが面白かった。

 まるで、蝶を蜜で誘い出して、夢中で蜜を吸っている蝶を網で捕らえたあと、ピンで標本箱に飾り付けるのと似ていた。

 交野は夜須のコレクションだ。美しくてもろそうで、蜜に弱い。

 だから、夜須が論文のテーマに困っている、たまたまおまえの研究論文と同じテーマになってしまった、とぼやいたのを聞いた交野から申し出られたとき、心の中で舌を出した。

「夜須、ぼくは他のテーマでも書けるき。これ使うていいよ。参考にしてくれよ」

 本当に頭が良かったなら、こんなセリフは決して言わない。夜須は交野が馬鹿で良かったと思った。それからは、なし崩しに何度も交野が書いた論文を奪ってきた。

 しかし、交野が何も言わず夜須の言いなりになるのには理由があった。まさか夜須を特別視していたことには気づけなかった。もし、夜須がそれに気づいていたなら、交野の思いを芽のうちにひねり潰したはずだ。

 夜須は自宅から通学していたが、交野は高知県西端の離島が故郷なので、大学近くにアパートを借りていた。それもあって、よくホテル代わりに使わせてもらっていた。

「すまないな。いつも助かるよ。終電逃したら、行くところがないもんな」

「いいよ、夜須は気にせいでも」

「そうか?」

 夜須はソファを陣取って、交野が借りてきたアクション映画のDVDを見ていた。テーブルに置いたビールが空になれば、夜須のためにストックしている冷えた缶ビールを持って来てくれる。

 ソファの肘掛けに座って、ビールを片手に「乾杯」と掲げる。夜須も同じようにした。

 交野はしたたか酔っているようだった。ぐいとビールを仰ぐ。テーブルにはすでに空き缶が数個あった。肘掛けに座っていた交野が、夜須が足を伸ばしているソファに腰掛けてきた。手を夜須の脛に当てて、はにかみながら呟いた。

「ぼくは夜須がおってくれるだけでええ。側におるだけで満足ちや」

 夜須は目を見開いて、交野を見た。ぞっとした。犬がナメクジに変わったくらいの嫌悪感が肌を舐めていった。

「何言ってんだ」

 交野が俯いて青白い肌を上気させて、もう一度口にする。

「側におりたい……。ぼくの気持ち、知っちゅーやろう?」

 夜須は汚いものから離れるようにソファから急いで足を降ろし、交野とは反対側へ身を寄せた。

 交野の気持ちなど知るわけがない。男が男にそんな感情を持つなど、考えたくもない。

 すぐにでもこの家から出て行きたかったのに、終電はすでに行ってしまった後だった。

「冗談だろ。何で今言うんだよ。しらけただろうが!」

「それは……」

 夜須の態度に戸惑っているのだろうか、交野が不安そうな表情を浮かべた。一言も発せず、どこか気が抜けたようにジッとしている。夜須の言葉を聞いて一瞬で悟ってしまったのだろう。

 始発までまだ遠い時間だったが、夜須は逃げるようにアパートを出て行った。


 交野がゼミの教室に入ると、一斉に視線が彼に注がれた。

「……おはよう」

 交野に心ない言葉がかけられる。

「おまえさぁ、男が好きなんだって? 夜須ぅ、夜須ぅ、側におるだけで満足ちやぁ。夜須が迷惑してるんだよ。気色悪ぃだろ」

 交野の顔色がさぁっと青くなった。

 夜須はそれを取り巻きの後ろからニヤニヤしながら見物した。

 青ざめた顔を下に向けていたと思ったら、交野はそのままきびすを返して教室を出て行った。

 それ以来、誰も交野を構内で見ていない。夜須もしばらくしたら交野のことなど忘れてしまった。

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