忌み地 第五章 結花子②
救急処置室に運ばれた夫がどうなったのかわからないが、結花子は外来センターの待合室の椅子に座って呆然としていた。夫が死んだかどうかで茫然自失しているのではなかった。人形を燃やしたことで本当に呪詛が解けたのか、とずっと自分に問いかけていた。そうでなくては困る。まだ一抹の不安があったのだ。
椅子に座ったまま呆けていると、名前を呼びかけられて我に返った。
「井野さん」
顔を上げると、そこに壱央が立っていた。
「壱央さん」
「人形、燃やしたんですね」
壱央が結花子の左隣の椅子に座った。
「ええ」
壱央の言うとおり、人形を燃やした。警察には夫が燃やしたと伝えた。あのとき結花子は夫と二人きりだった。警察は自殺と判断したけれど、真相は闇に葬られた。残ったのは焼けた人形から人骨が見つかったことだけ。
「結局、呪詛は何だったんですか」
「一族の繁栄のためにかけた呪詛。もう一つは呪詛とは言えないかもしれないです。でも結果的に呪詛になった何か、です」
壱央は結花子が最後に見た幻覚のことを知らない。このまま黙っていてもいい。死んだ孕み女の白濁した瞳が、今も結花子に語りかけてくる。それは恨みの言葉であって、結花子までもが巻き込まれた呪詛だ。もう一つの呪詛がどうやって作られてしまったか、結花子は悟った。それでもあえて聞く。
「これで終わったのよね?」
「呪詛が二つとも解除されていたら」
「解除されてないと困る……」
結花子が低い声で呟いた。
結花子たち以外誰もいない待合室の温度が下がった気がした。電灯が少しだけチカチカと明滅している。
「井野さん」
緊張を孕んだ声音で壱央が結花子に座っているように合図した。
「来る……」
その間も電灯がチカチカと音を立てながら明滅する。暗い廊下の先から、何かがやってくる気配がした。電灯が奥から順番に消えていく。とうとう、明滅する電灯が結花子たちのいる場所だけになった。
冷気が風もないのに結花子の頬をかすめていく。
壱央が数珠を右手に持ち、身構える。はぁっと吐く息が白い。
廊下の先、暗闇の中から、水の滴る音がし始めた。
べちゃ、べちゃと、濡れた足が床を踏みしめる音が聞こえてきた。かすかな音のはずなのに、すぐ耳元で聞こえてくるように感じる。
「壱央さん……」
不安になった結花子は壱央の後ろに身を縮こまらせた。
暗闇の向こうに裸の女が恨めしげに立っている。乱れた長い黒髪に土気色の肌、大きな腹は二つに裂けている。その腹からボタボタと血が床に垂れ落ちる。女の顔ははっきり見えないが、眼窩が落ちくぼみ、口は深い洞穴のように開いている。だらんとした両腕には赤ん坊は抱かれていない。
夢とは違う。結花子は女の姿を見て思った。夢に見た女は無害だったが、目の前にいる女は決して安全な幻ではない。
女は一歩一歩結花子たちに近づいて来る。
女の背後に暗闇に沈む葦の群生が見える。この女は谷地と名付けられた湿原からやってきたのだ。黒いもやが女の周りに湧き上がる。少しずつ女が近づいてきている。このまま眼前に女が立ったらどうなるのだろう。結花子はぎゅっと壱央のシャツの裾を握りしめた。
じゃらんという音をさせて、壱央が数珠を鳴らした。両手を使い、数珠玉をこすりつけ、じゃっじゃっと音を立てながら何かを唱えている。女が近づいてくるごとに、唱える声が大きくなっていった。なんと言っているのかわからないそれは、日本語のようで日本語ではない。しかし、女にはその言葉の意味が伝わっているのだろう、近づいてくる速度が遅くなった。
女が足を止めて、暗闇からこちらを伺っているのがわかる。
壱央が大きな声で唱える度に、女を取り巻くもやが薄まっていき、やがて吸い込まれるように暗闇の中に消えていった。
電灯が廊下の端からこちらへ向かってカチカチッと音を立てて順にともった。明るい廊下の向こうには、すでに何もいなかった。
その途端、祖母からもらった数珠が、壱央の手の中で突然弾けて飛び散った。数珠玉が音を立てて床に落ち転がっていく。壱央が慌てて数珠玉を拾い始めた。
その一つが廊下の奥へと転がっていく。結花子はそれを目で追って、廊下の奥にあるものを見つめた。
「どうかしました?」
壱央が不思議そうに訊ねてきたが、結花子はなんでもない、と首を振りながら訊ねた。
「今のはなんです」
「あれが一番最初に井野家にかけられた呪詛じゃないかと思います」
「そう、あれが……」
結花子は落胆したように肩を落とした。
女は失った赤ん坊を求めているような気がした。果たして男が奪った赤ん坊はどこに行ったのだろう。疫病で死んでいった女の腹から取り出した赤ん坊を、男はどうしたのだろう。女は男が奪っていった赤ん坊を今も探して続けているのだ。
そのことをひしひしと結花子は感じていた。あの女に追いつかれたとき、自分とおなかの子はどうなってしまうのだろうかと。
「また来たらどうしたらいいですか?」
「わかりません。あれは土地にまつわる呪詛だと思います。谷地という土地が存在する限り、消えない呪詛かもしれないです。呪詛の原因がわかれば、解けると思いますけど」
「じゃあ、あの家から出てしまえば、呪詛は解けなくても関係なくなるわけ?」
壱央が考え込む。
「どうでしょう。谷地から離れることで無関係になれるなら、すぐにでも引っ越したほうがいいと思います」
「やっぱり、そうなりますよね……」
このまま谷地の家には帰らず、ホテルにでも泊まり込み、引っ越しの計画を練るのが最善策かもしれない。
「叔父さんに聞くしかないかな」
結花子は独りごちた。
「ご親族がいるのでしたら、相談したほうがいいですよ」
「そうしてみます」
やがて、救急処置室から看護師が出てきて、とりあえず応急措置をしたが、重篤な熱傷で今後どうなるかわからないので、覚悟をしておいてくださいと告げられて、数々の同意書にサインをさせられた。
夫はこのまま死ぬのかもしれない。そうしたら、ますます結花子は谷地の家や井野家に縛られてしまうだろう。
壱央を見送った後、結花子は計画したとおりホテルに泊まり、叔父の篤に連絡を取った。事の次第を聞いた叔父は翌日にでもこちらに来ると言って電話を切った。
翌日、篤と会った際に、谷地の家にはいい思い出がない、いるだけで惨劇を思い出してしまうから帰れないと告げると、篤も仕方ないと思ったのか、引っ越しの準備や不動産に関する全ての手続きを取ってくれた。
「寿晶を最期まで見てやってくれないか」
篤が頭を下げて結花子に言った。夫の命がそう長くないことを悟ったのだろう。夫が死んだ後、井野の籍から出ても構わないと言ってくれた。
「そうします」
井野家の直系は寿晶で最期になる。籍を出た後におなかの子が生まれれば、井野家とは関係のない子になるはずだ。そう願うしかない。
***
秋の日差しが眩しい中、引っ越し業者に頭を垂れて、結花子は礼を言って見送った。
「ありがとうございます」
市内にあるワンルームのマンションへの引っ越しを手伝ってくれた壱央にも、結花子は頭を下げた。
新築の賃貸マンションは、何もかもが新品で新築の匂いがする。あのかび臭さとおさらばできて嬉しい気持ちを隠せない。あの病院での一件以来、女の霊は出なくなった。それも嬉しさに拍車をかけている。ウキウキした足取りで、設置してもらった冷蔵庫からペットボトルを取り出した。先に出しておいたマグカップにペットボトルのお茶を注ぐ。それを見ている壱央もくつろぐように足を崩す。
「ビールとかじゃなくてごめんなさい」
「いえ、お気遣いありがとうございます。昼間から酒は飲まないことにしてるんです」
そう、と臨月を迎えた結花子は幸せそうにおなかをさする。家具がないので、壱央も結花子もフローリングの床に直に座っている。ベージュ色の床はひんやりとして固い。
夫は二日ほど生きたが、酷い熱傷で結局死んでしまった。その後すぐに家が売れ、しかも上物を壊して新しい家を建てるという。ようやく結花子は谷地の家から解放されたのだ。谷地の家を出て以来、毎日繰り返していた怪異や悪夢に悩まされることはなくなった。おなかの子も順調で、予定日に生まれるのを楽しみにしている。
「名前、井野のままで良かったんですか?」
「財産分与の手続きが面倒くさくて。名前だけ変えなかったんです」
と、結花子は苦笑いを浮かべた。
壱央がマグカップを手に取り、茶を飲む。
「そういえば、亜美さんが行方不明って知ってましたか?」
「亜美が?」
夫が最期に見せた小さなかけらを思い出した。亜美とその子供も、きっと夫が連れていったのだ。
テレビ、冷蔵庫などの大物は引っ越し業者が設置してくれたので、すぐに使うことが出来た。結花子は何気なくリモコンでテレビを付けた。テレビ画面に殺人事件のニュースが流れる。めった刺しにされて腹を裂かれた女性が被害者らしい。犯人は捕まっておらず、被害者の遺体の一部がまだ見つかってないという。
「怖いですね……」
ニュースを見た壱央が呟いた。
結花子はそのニュースを見てぼんやりと考える。もしも、夫が生きていれば、新たな人形の中にあれを入れられただろうか。
しかし、その呪詛はもうなくなった。井戸も人形も谷地の家も全てなくなった。本家の血筋ももはやいない。籍を抜いたのだから関係ないはずだ。だから一つ目の呪詛が顕現することはない。
「終わったのよね?」
結花子の問いに、壱央は複雑な顔をする。
「さぁ……」
壱央は懐疑的に言葉を濁した。
「関わりを持たなければ、呪詛の影響はないと思いますけど、絶対とは言いがたいです」
谷地に足を踏み入れなければ、再び呪詛に取り憑かれることはないだろう、と締めくくった。壱央も自信がないのだ。弾け飛んだ数珠がその証拠だ。この後、しばらくしたら壱央は宮古島の実家に戻り、祖母について修行を続けるらしい。それまではなんでも相談に乗ると言ってくれた。それだけでもありがたい。
ベランダの外から、か細い猫の鳴き声が聞こえてくる。ここは、ペット可のマンションなので、おそらく隣室の住人が猫を飼っているのだろう。
「私も猫飼おうかなぁ……」
結花子はおなかをさすりながら呟いた。