屍喰い蝶の島 三月二十一日②
「志々岐島の和田津はまっこと昔から志々岐島に住んじゅー。源平合戦で落ち延びた平家がこの島に居着いて子供を残いたき、和田津の人間はみんな、平家の血を継いじゅーんや」
夜須はそれを聞いて内心うんざりした。交野と同じことを言っている。交野に至っては自分の家系こそが平家の子孫だと言っている始末だ。
「清盛さんの落とし胤がうちらの先祖なんや。大浦は流刑地で罪人の子孫やき、うちらとは違う。やけんど、平家の首を出さんと村がのうなってしまうき、仕方のう源氏に落とし胤の首を渡いたんや。さっきの話で鍾乳洞の入り口を塞いだと話したろう。その塞いだ穴の近くに首が浮いて出るき、昔はそこに首塚があった。今はどこに行ったか……。首が上がるきこうべ山言うがよ」
放っておいたらずっと自慢話に終始するのではないか、と夜須は苛ついた。わざと話の腰を折ろうと、
「じゃあ、曾祖父さんの時代にシジキチョウは神部山にも出た? 首が神部山に上がるなら、胴体はどこに上がったんですか。やっぱり碧の洞窟ですか」
「そうや、碧の洞窟に上がった。昔は神部山側から中に入れたき、いちいち海側から入らいでも良かった」
話したいことを話し終わったのか、もごもごと口を動かして老婆は黙った。
ふすまが開いて、おかみさんが入ってきた。
「昔話は聞けた? おばあちゃん、最近は思い出いたことしか話さんきねぇ」
「シジキチョウのことを聞きたかったんですが……。碧の洞窟以外で見たことはあるか訊ねたんです。そうしたら昔は神部山にも出たと」
すると、おかみさんが、何か思い出したようだ。
「そういうたら、去年は胴塚の周りにも出たぜよ! 思い出いた。去年はシジキチョウ目当ての観光客がたくさん来たぜよ」
「一年前にも水死体が?」
水死体が碧の洞窟の外に上がったのだろうか。
「いいや、去年は水死体が上がらざったんちや。不思議でねぇ」
夜須は首をひねった。水死体がないのにシジキチョウは何を食べたのか。
「今までとは何かが違ったんですかね」
「一年前というと、帰ってきた思うた矢先に惣領屋敷の雅洋がおらんなったねぇ。黙ってまた島からなんちゃあ言わんで出て行くらぁてねぇ。この村におっても観光業しかないきかねぇ……」
それを聞いて、夜須は驚いた。交野は屋敷に戻ってきている。
「戻ってきてますよ。わたしは彼に呼ばれてこの島に来たんだし。妹の揚羽さんと一緒に屋敷にいますよ。揚羽さんは子供も連れていたし」
すると、おかみさんは目を大きくして黙る。居眠りをしていると思っていた老婆が、不思議そうに言う。
「いいや、雅洋に妹なんちょらん。雅洋は一人息子や。子供がおるがなら、その揚羽とか言う人は、雅洋の嫁さんやないのかね。雅洋の親が今も元気やったら、嫁さんを連れて帰ったら喜んやろうにねぇ」
それを聞いて、夜須は反論しようとしてやめた。
あれだけ夜須に媚びて付きまとい、自分の気持ちに気付いてほしいとふざけたことを言っていたのに、嫁と子供がいるだと、と次第に腹が立ってきた。しかも自分の女を妹と言って夜須に嘘をついた。あれだけ夜須に好きだと言っておきながら、結局は女を選んで子供まで作った。
夜須は別に交野のことを好ましく思っているわけでもないのに、交野の心が自分から離れたと思うと、裏切られたような感情がふつふつと湧いてきた。
交野を問い詰めて、自分を騙したことを謝らせてやる、と憎しみに似た感情に支配される。
一体どういうつもりで、蝶の話をして夜須を志々岐島に呼び寄せたのだろうか。交野を振った夜須に自分が幸せだと見せびらかすためか。そのためだけに子供まで作ったのか。馬鹿な男だ。夜須は交野ごときに腹を立てるのが惜しくなって、冷静になろうと努めた。
これ以上、かんべにいても収穫はない。ここに来て損をしたどころか、思いも寄らない事実を知らされて、思わず取り乱すところだった。
「お話をありがとうございました。わたしはこれで失礼します」
夜須におかみさんが何やらいろいろと話しかけていたが、夜須の耳には入らなかった。
夜須にとって交野はいつでも自分にかしずく存在で、交野から離れていくのは裏切りだった。惣領屋敷に戻ったら、交野に最後通牒を言い渡す。何を言われてももう交野の言葉には乗らない。屋敷は出ようと決めた。
石段を登り詰めて、惣領屋敷にたどり着く。よくよく見れば、屋敷のあちこちが痛んでいるのが分かる。屋根瓦がいくつか剥がれてなくなっている。門扉前や庭にも雑草が茂っている。踏み石にはたくさんの枯れ葉が積み重なっている。自棄に立派な枝振りのアコウの木と井戸が庭からよく見えた。
玄関の前にも枯れ葉が積もっていて、玄関の引き戸は開け放たれていた。
不用心だと思いつつ、夜須は玄関に入り、大声で交野を呼んだ。
「交野! いるんだろう、出てこいよ!」
物音一つしない屋敷に、夜須の声ばかりが虚しく響く。うっすらと埃で廊下の床が汚れている。夜須は構わず上がり込み、一つ一つふすまを開けて交野を呼んだ。食事をした座敷を開けると、座卓に食器類がそのまま残っていた。交野の食べ残しか、と思い覗き込んでみた。途端に吐き気を催した。
茶碗や皿の中に、フナムシやゴカイの死骸が転がっている。
夜須は自分が食べたものを思い出す。胃から込み上げる嫌悪感を、思い切り畳にぶちまけた。
何度も嘔吐して、最後に胃液しか出ないほど、嘔吐いた。
交野はこんな嫌がらせをして悦に入っているのか。それとも、一年前に夜須が交野にしたことに復讐しようと、女と二人でグルになって夜須を苦しめるつもりなのか。誰が交野の権謀に嵌まるものか。
座敷から順にふすまを開けて、他の部屋を見ていった。交野の名を呼びながら捜すが、本当に屋敷には人っ子一人いないようだ。
家具やカレンダーなどそのままなので、引っ越した形跡はない。おそらく交野の部屋であろう場所には、ベッドが置いてあり、机には本や書きかけのノートが整頓されて放置されている。
ふと、交野の部屋の壁に掛けたカレンダーを見ると、一年前のものだった。三月のまま取り替えていないようだ。
夜須は少しずつ不安になってくる。何が不安なのかよく分からないが、とにかく夜須はそこで考えることをやめて、荷物を持って出ていくべきだと思いついた。
早速自分が寝起きしていた部屋に行くと、今朝起きたままの布団があった。部屋に差し込む日差しのおかげで、部屋の中がよく見えた。
布団は黄ばみ、染みが出来ている。昨日は気付かなかったが、ずいぶん長い間洗濯してない気がした。こんな不潔な布団を客に出したのか、と憤慨する。
荷物は昨夜綺麗に整頓してキャリーケースに詰めている。それを持って部屋を出ると、脇目も振らず玄関に向かった。
夜須は憤りを感じつつ、人気のない空き家同然の惣領屋敷から荷物を持って出て行った。
腹立ちで思わず忘れそうになっていた碧の洞窟ツアーのことを思い出した。時計を見ると、正午を過ぎていた。慌ただしかったのと、交野のことで昼飯を食べるのを逃してしまった。コンビニがあればおにぎりでも買って軽く済ませることもできるのに、四国と遮断された離島には便利なものは一つもない。
悔しいのは、どんな腹が立ってもシジキチョウのことが頭から離れないことだった。シジキチョウを捕獲するまで帰ることなどできない。けれどタイムリミットは二十三日早朝までだ。あと、二日でできることをしてしまわなければならない。このときばかりは、自分の蝶への情熱を疎ましく感じたことはなかった。それでもやはり、赤い蝶を目の当たりにしたい。この手の中に収めて標本にして愛でたい。シジキチョウはきっと想像以上に美しい蝶ではないだろうか。
そんなことを考えると、ささくれだった気持ちも落ち着いてくる。夜須にとって、交野の裏切りよりもシジキチョウのほうが大事だった。
その足ですぐ近くにあるアクアマリンへ向かった。
すでに他のツアー申込者は集まっていて、レンタル品を選んでいる。シュノーケリングセット、フィン、洞窟内で使用するライト等、中にはグローブとマリンシューズまであったがそれは商品だった。
まさか海に潜る想定をしていなかったので、夜須はグローブなどを一揃い買った。結局、レンタル品も一式借りた。虫を入れる瓶やピンセットなどの道具類を防水するために、店長から密閉式の容器袋をもらいそれに入れた。
店長に何度も水中カメラの性能を訊ねる。とりあえずこのメーカーの初心者用がいいと勧められたが、持参していた普段使っているカメラと同じスペックのものを欲しかった夜須は、レンタル料金が高めの商品を選んだ。
干潮になる十四時まで講習を受け、ボートで碧の洞窟の近くまで行き、岩礁に乗る手前で止めて、トレーナーの指導の下、おのおの海に入った。
まだ泳ぐには冷たいが、芯から冷える寒さでもない。数人が、トレーナーの指示に従い、碧の洞窟まで泳いでいく。
青く澄んだ海面の底にはゴツゴツとした岩礁があり、そこから徐々に光の届かない深みへ続いている。
普段泳ぎ慣れていない夜須は、潮の流れに押されて、少しずつ深みを漂い始めた。どのくらいの深さなのか分からないだけに、もう少し強くフィンで水を掻けば、皆のいる浅瀬にたどり着くだろうと思った。
足下をさぁっと冷たい海流が押し寄せてくるのを感じる。
流れが違う。冷たい海水が足の周りにまとわりつく。満潮時は潮流が激しくなる、と言う言葉が頭をよぎる。干潮時なのに、激しい潮流に巻き込まれたのか。今自分の足にまとわりつくのはその潮流か、と夜須はぞっとした。
そのときになって慌てて水を掻いて前へ進もうとするが、まるで足首を何かに掴まれているように進まない。少しずつ、深みへと引き込まれていく。
何度も引きずり込まれて水中に目を向ける。浮かび上がり沈むごとに夜須はどんどん沖に流されていっている。もう視界は透明な海ではない。光の届かない暗闇が足下に凝っている、恐ろしい海だ。
何かが足に絡まって、夜須を引っ張って溺れさせようとしている。思わず、足下を見た。暗い水底から手が伸びてきて、夜須の足を掴んでいた。
叫び声を上げた途端、ゴボゴボと空気が口からあふれ出す。
夜須は懸命に水を掻いた。まるで初日に見た夢のようだ。海水が口の中に入ってくる。鯉のように口を水面に出してなんとか息をする。
「おーい!」
遠くからトレーナーの声がして、ぐっと脇を掴まれた。
「大丈夫ですか!」
気付けば、岩場の浅瀬に手を突いていた。ゴホゴホと咳き込みながら、夜須は何が起こったのか思い出し、慌てて自分の足を見る。
足には海藻が絡まりついていた。それは手ではなかった。
荒く息をしながら、海水が気管から出るのを待って何度か咳をした。何度も足をさすって、あれは何だったのか、それともこの海藻だったのか、考えがまとまらない。
トレーナーが心配そうに夜須に声をかける。
「お客さん、もう今日はやめますか?」
夜須は自分がいた位置を確認した。遠浅になっていて、引き上げられたとき夜須はまだ浅瀬にいたのだ。海藻が足に絡まって驚いた自分は、パニックになって、浅瀬で溺れそうになり、その際に手と海藻を見誤ったのだろう。
途端に全身に火が付いたように恥ずかしくなった。なんと無様な様子だったろうか。それを一部始終見られていたのだ。今ここで自分がやめると言ったら、彼らは夜須のことを臆病者だと思うだろうし、馬鹿にするかも知れない。
夜須は平然とした態度を取り、「続けます」と告げた。
「本当に大丈夫ですか? 休まれてもいいんですよ」
休めば、もう二十三日しか日にちがなくなってしまう。それではすでに遅いのだ。
夜須はどうしても洞窟の中が見たい。
パニックで海藻と手を見間違えたくらいで、シジキチョウを諦めたくなかった。
深く暗い海底はいまだに膝が震えるほど怖いが、目の前に碧の洞窟の入り口が開いているのを見ると、何もせず引き返すのはもっと恐ろしい。二度とチャンスはないような焦りに襲われた。
今日と明日だけは、シジキチョウのことだけを考えて、二十三日の朝には何の心配や心残りもなく、本州に帰りたい。
「大丈夫です」
それでもトレーナーの後ろを恐る恐る進みながら、岩場に足をかけて、ようやく碧の洞窟の入り口にたどり着いた。陸地と変わらず歩いて入っていける。身軽なシュノーケリングだからこそ、移動がたやすい。
腰に下げた袋から防水カメラを取り出し、まずは碧の洞窟の入り口を撮影した。他のツアー客もそれぞれカメラで景色を撮ったり、集合写真を撮ったりしている。
トレーナーは観光ツアー客に碧の洞窟の説明をし、代わりに写真を撮る対応に忙しそうだ。