忌み地 第一章 結花子②
それから慌ただしく引っ越しの準備が始まった。夫も会社に引っ越しの手続きを取り、何事もなく交通費の申請も済んだ。夫が会社に行っている間に、結花子は移転元と移転先の区役所に行き転出入届を出して、金融機関などの住所変更をおこない、全てが終わるのに二日ほどかかった。
引っ越しの準備は妊娠四ヶ月の結花子一人では無理なので、夫に頼み込んで全て引っ越し業者がしてくれるプランを選んだおかげで、引っ越し代金は高くつくが気持ちも体も数段楽だった。
五年間住んでいたマンションの掃除を終えたあと、友人の亜美に来てもらい、彼女の運転で新居になる夫の実家に向かった。
亜美は結花子が勤めていた会社の同僚だ。妊娠して会社を辞めても付き合いは続いている。親友とも言える仲で、何でも相談できていると結花子は思っている。
「新居ってどんな感じの家なの?」
亜美の問いに結花子は正直に答えるべきか迷ったけれど、ありのままを伝えた。
「古いよ。田舎の家って感じ。ちょっと暗い感じかな。多分照明が少ないからだと思う」
「リノベーションすればいいんじゃない?」
亜美の言葉に一瞬同意するけれど、すぐに夫の顔が浮かんだ。
「そんなに長く住むわけじゃないし、寿晶さんが許してくれるかわからないし」
すると、からかうように亜美が笑う。
「なぁに? あんたたち、念願の子供が出来てハッピーなんじゃないの? 旦那もあんたの言うこと喜んで聞きそうだけど?」
夫のことがわかってないんだな、と結花子は心の中で落胆した。結婚するまでは気付かなかったけれど、ワンマンで頼りがいのあると思った寿晶は、その実、独りよがりで頑固でなんでも自分だけで決めてしまう。今回の引っ越しもその一つだ。結婚したての頃、結花子は自分の意見を言っていたが、そういうときはわざとらしくはぐらかされるか無視されるのがオチだった。
「もう、決まったことだから」
夫に口答えしたり意見を言ったりすることに疲れを感じるようになってからは、ぐっと堪えてため息を呑み込むことを覚えた。それを亜美に話すべきなのかいまだにわからないでいる。幸せそうな夫婦を演じているほうが亜美に余計な心配をかけないで済むかもしれない。結花子は薄く微笑んで、思いつく限り、新しい生活のいいところを上げていった。
「安達野村内組合の人たちも親切だし、田舎って言うけど、それほど田舎ってわけじゃないんだよ。近所に新興住宅地もあって、コンビニだってあるし、歩いて行ける場所にスーパーもあるんだよ」
それを聞いて亜美が笑う。
「そんなの当たり前のうちに勘定していいんじゃない? 結花子はどうなの。病院も遠くなっちゃったじゃない」
それは結花子も気になっている。かかりつけの病院を全て変えなければならなくなった。産婦人科のある総合病院に行くために車でも三十分はかかる。
「今日は一泊していくんでしょ?」
「ごめん。明日用事があるから、今日は引っ越し祝いしたら帰らないと」
「寿晶さんに会えないね」
「会わなくていいよ。会社で毎日顔を合わせてるんだし、また今度ね」
なんだか少し残念な気分になったが、わがままを言っても仕方ない。確かに実家近くの電車の最終は乗り継ぎのことも考えると、引き留めるわけにも行かなかった。
谷地の実家に着くと、すでに引っ越し業者のトラックが家に横付けして停まっていた。
仏間を含む4LDKの広めの平屋。狭い庭に敷地内にある駐車場。外観だけだと、一体いつ頃建てられたのかわからないくらい年月を感じる。外壁には焼き杉板が使われており、屋内の天井と床も同じような木材が使われている。玄関から上がるとすぐに居間に入る。居間に入って左手側に台所などの水場があり、右手側は寝室と縁側のある部屋に通じている。三部屋とも新しい畳敷きで、間仕切りは日差しが入るようにくもりガラスを嵌めた雪見障子になっている。木材だけ見ると同じに思えるが廊下や各部屋の作りを見る限り、何度か増改築していることだけはわかる。一番古そうな部屋は仏間で、張り替えられていない畳が黄色く変色して、い草の香ばしい匂いも感じられない。三方をふすまで閉ざされると頼るものが電灯の明かりしかなくなる。
ただ、越してきて一番に閉口したのはカビだった。葬式の時、これほどにカビが生じていただろうか。誰一人として気が付きもしなかった。葬式を終えてからたった二、三日で廊下の板間や畳に黒カビが生えていた。
引っ越し業者がざっと掃除して家具を設置していく。事前に掃除すらしなかったと思われているのではないかと、結花子は業者にも亜美にも恥ずかしい思いをしながら、業者が作業を終えて帰るのを待った。
「カビ凄いね」
やはり、亜美にもわかってしまうほどの酷いカビだ。業者は何も言わないが、同じように感じたことだろう。
「葬式の時は、こんなんじゃなかったんだよ」
掃除のために出してもらっておいたバケツに水を溜めて、焦って畳のカビを拭おうとした。それを亜美が止める。
「畳のカビはから拭きだって」
スマホを片手に結花子に助言してくれた。スマホで掃除方法を検索し忘れるほどに、結花子は気が動転していたようだ。
「ホームセンターで道具とか買ってきて、とりあえず寝られるようにする?」
「そうだね」
亜美の前向きな言葉に励まされて、結花子は頷いた。
ホームセンターの通り沿いにあった洋菓子店でご褒美のケーキを買い、帰ってきてから二人がかりで掃除したおかげでカビも一通りましになって、ようやくささやかなパーティができた。日が暮れる頃に結花子が車を運転して、最寄りの駅まで亜美を送っていった。
「何かあったら電話してよ」
心強い友人の言葉に、結花子は笑みを返す。
「わかった」
手を振って、亜美が改札をくぐったあと、結花子はほーっとため息をついた。疲れと安堵で気が抜けた。けれど、すぐに不安が芽生える。あの家に帰ったらしばらくの時間、独りで過ごさねばならない。たった一人であの空間にいるのは気が滅入るだろう。気が付けば、なぜかそんなふうに考えている。昼間はなんとか明るかった家の中が、陽が暮れる頃合いには静かな闇に包まれ、義母の死体がまだあそこにあるという嫌な想像をしてしまう。
駅に隣接しているスーパーに入り、雑誌コーナーでテレビ番組の雑誌を買った。ついでに弁当と飲み物、明日の朝食の材料を買い、今日だけ夫には弁当で我慢してもらうことにする。
テレビをつければ、静けさと闇が退く気がした。強くそう願っている自分がいる。その闇は、なんとなく外から忍び入るのではなく、家の中心にある仏間からやってくる気がしていた。
そうか、自分はあの仏間が苦手なのだ。通夜の晩、薄暗い仏間に義母と二人きりになった。妊婦さんは座っていていいのよ、と言う言葉に従って、後ろめたくはあったが義母と一緒に仏間にいた。死んだ義母の血の気の引いた青白い肌に静脈が浮いて見える。首元には青黒い条痕が残り、自死の名残が痛々しい。義母を挟んで床の間には数え切れないほどの日本人形が所狭しと並べられている。黒と金色の立派な仏壇には、きっと井野家代々の先祖の位牌が収められているのだろう。古い家には珍しく遺影はない。だから、亡くなったと聞いている義父の顔もわからない。痩せこけた老女の顔を見つめて、確か義母はまだ六十代だった気がするとぼんやりと考えていたことを覚えている。
車を敷地に停めて、明かりを消した暗い屋内に入る。暗がりを恐れるように急いで玄関口の電灯を付けた。パチンと音を立てて、電球色の蛍光灯の明かりが辺りを照らし出す。温かな色合いなのに、家全体に潜む冷えた陰を一層感じてしまう。湿った空気が肌を撫でる。やはりカビ臭い。しばらくはこの臭いに耐えなければならないだろう。いっそ、夫に相談して畳と板だけでもリノベーションしようか。
なぜか家の中の空気が重たい気がする。湿気のせいだと思うようにして、とりあえず亜美と掃除をした居間へ入った。雪見障子を閉め切ると、少しはカビの臭いも緩和される。空気清浄機をフル回転させていると、空気中に漂うカビの胞子が吸い込まれていくイメージが浮かんだ。
レジ袋を元々家にあった座卓の上に置き、袋の中からテレビ番組の雑誌を取り出した。畳に横座りになってみて、クッションよりもざぶとんのほうが座り心地がいいのかな、などと考える。リモコンを手に取り、重い空気を一掃させるためにお笑い番組を選んだ。テレビの面白おかしい漫才を見ながら、軽く笑う。その声が部屋に籠もって響いて聞こえるのが薄ら寒く感じられ、結花子はテレビのボリュームを上げて、孤独感を紛らわせようとした。
ふと壁掛け時計を見上げると、二十時を針が指していた。いつもならこんな時間には夫は帰ってこない。でも今日だけは早く帰ってきて欲しかった。
夫の帰りが遅くなり始めたのは、三年前からだ。子供が出来ず、夫もイライラしていたし、不妊治療を始めたばかりで結花子自身も情緒が不安定だった。夫は子供が欲しいから渋々不妊治療に付き合っているとわかっていた。子供が出来ないことを暗に責めることもあった。排卵日に合わせてセックスするように頼むのが、結花子には苦痛で仕方なかった。子供が欲しいくせに協力的ではない夫に言葉にならない感情を抱いたこともある。子供は自分一人の力で出来るわけじゃない、と詰りたかった。
子供が出来ても夜が遅い夫。しょっちゅう会社に泊まり込んで家に帰らないこともあった。休みの日には家族への労いなどなく、ひたすらスマホを弄っている。話しかけても上の空で真面目に取り合ってくれない。考えたくないが、嫌な想像をしてしまう。その想像を言葉にするのが怖い。だから不安を先送りにして、ひたすら子供のことだけ考えていた。けれど、新しい環境の中、以前と同じ生活が続くのならどうすればいいのだろう。不安と憤りばかりが大きくなっていく。
いきなり、玄関の引き戸が開く音がした。結花子は反射的に立ち上がり、雪見障子を開いて、廊下の向こうで明かりに照らされる夫を見つめた。
「ただいま」
遠目からも機嫌のいい夫の表情が窺える。早く帰ってきてくれて嬉しい反面、なぜ今日は早いのかという疑念も浮かぶ。
「早かったね」
他に言葉が見つからず、素直な言葉が喉をついて出た。
「今日は新居に引っ越してきたばかりじゃないか。これ、ケーキ」
夫が左手に持ったケーキの箱を掲げた。
「今日、亜美が来てた」
「そうなんだ」
「亜美とケーキ食べた」
他愛ない言葉を交わしあい、明かりの漏れる居間に入っていった。
「じゃ、ケーキいらなかったかな」
「そんなことないよ。寿晶さんの分は買ってなかったから」
すると、夫が苦笑を浮かべる。
「酷いな。夕飯は?」
「ごめん、コンビニでお弁当買った」
夫がネクタイを緩めながら鞄を畳に置き、どっかと腰を下ろして、お笑い番組のチャンネルをプロ野球に変えた。
「いいよ、今日は疲れただろ?」
「まぁね……」
「なんか臭いな」
「カビが酷かったの」
結花子は慣れて感じなくなっていたカビ臭さを、夫が嗅ぎ取って鼻にしわを寄せた。
「この家、昔からカビ臭かったの?」
「そんなことなかったような気がするなぁ。家を出たのが十七年も前だから忘れた」
「そう……」
結花子は座卓に弁当を並べ、ペットボトルのお茶をコップに注いだ。いつもなら、結花子のことなど尻目にすぐにスマホを開いて夢中になって弄り始めるのに、今日は珍しくスマホは座卓の上に放置したままだ。
どうしたのだろうと反対に気になってしまう。
「業者に頼んだら引っ越しもずいぶん楽だっただろ?」
「うん。屈んだりするのきついから助かった」
結花子は弁当のおかずを口に入れながら、何気なくテレビに視線を移した。屈むのがきつくても、明日からは自分一人で、この家のカビを取り除いていかねばならないと思うと気が重い。
「きつい?」
「ちょっと」
「無理しなくていいよ。俺は大丈夫だから」
結花子は夫の言葉に落胆した。少しでもいいから本当に気遣ってほしいのに、夫にそれが伝わらない。わだかまる感情を堪えてテレビに視線を移した。
他の部屋はまだカビ取りが済んでいないので、今日は居間で寝ようと言うことになり、風呂を済ませるとすぐに夫は寝てしまった。
結花子は座卓に置いた鏡を覗き込み、長い髪を櫛で梳いて三つ編みにしていく。明日から本格的にここでの生活が始まるのだ。まずはカビをやっつけて、前のマンションで使っていた家具を出してこよう。ホームセンターでカーペットを買ってもいい。抗菌仕様ならカビにも強いかもしれない。
自分も夫も今日は何かしらで相当疲れていたのだろう。睡魔に負けて、結花子も布団に入ってすぐに眠りに落ちた。