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忌み地 第四章 結花子④

 毎日三軒ほどはしごして、本を読み終える頃、やっと夕方になった。時間的に人が混み始めている。長居しすぎたと思って、慌てて会計を済ませた。夕飯の準備をしなければいけない、と結花子は駐車場へ急ぐ。駅前の駐車場まで半ば早歩きで向かう。ようやく駐車場だと思ったとき、平らな地面で躓いた。

「あいた……」

 何に足を引っかけたのかと地面を見たら、白い両手が自分の両足首を掴んでいた。自分の目を疑って二度見すると、次の瞬間、足を掴んでいる女の全身が現れた。地面にうつ伏せに横たわり、腕を伸ばしている。Tシャツにデニムパンツを履いていて、霊よりもはっきりと見えてまるでそこにいるかのようだ。白い腕には血の気があり、肘の辺りがうっすら色づいている。肩のあたりまで伸ばした茶髪。うつ伏せているから顔はわからないが、見覚えのある後ろ姿だ。困惑して固まっていると、結花子の足を掴む手が、いきなり足を引っ張った。

 悲鳴を上げる暇もなく、結花子はうつ伏せに転倒した。強く腹を打ち、激烈な痛みに悶絶する。真っ先に頭に浮かんだのは、我が子のことだった。痛みにのたうちながら、結花子は、「赤ちゃんが……、赤ちゃんが」と呻いた。スマホを取り出す余裕もなく、地面に横たわっていると、近くを通りがかった女性が駆けつけてきて、救急車を呼んでくれた。

 結花子は救急車で近くにある病院に搬送された。朦朧とする意識のなか、ストレッチャーに乗せられて処置室に連れていかれ、そのあとのことは何も覚えてない。

 次に気が付くと、白い天井が目に入った。目を動かすとカーテンレールが見える。顔を動かして周囲を見回しカーテンが閉まっているのを見た。自分が病院の一室にいるのだと悟る。手を動かそうとしたが、右腕に点滴の針が刺されていて上手く動かせない。

「あ、赤ちゃんは?」

 すぐに腹に目をやった。腹は変わらず膨れているけれど、強く打ったところがじんじんと鈍く痛む。なんとか体を起こそうとしたとき、カーテンが開けられて若い看護師が入ってきた。

「気がつきました? お名前言えますか?」

「井野結花子です。ここは……」

「病院ですよ。頭のほう、はっきりしてるようですね。腹部と頭部を打っているので、三日間は病院に泊まってくださいね。明日エコーとCT検査がありますからね」

「あの、今何時ですか?」

 自分が戻らないと夫が心配するかもしれないと、とっさに考えた。

「二十二時過ぎですよ。私物は袋に入れて足下に置いてますから。スマホを取りましょうか?」

「すみません」

 スマホを取ってもらい、夫の携帯に電話をする。

「結花子、おまえ今どこにいるんだ」

「病院。転んでおなか打ったから……」

 そう言いながら、自分の足首を掴んでいた女を思い出して腕に鳥肌が立った。しかし、そのことを夫に伝えたところで信じてくれないだろう。

「子供は無事か?」

「大丈夫って言われた。様子見で週末まで入院なんだって」

「どこの病院だ?」

 夫が普通に心配してきたので、今はまだまともなのだと胸をなで下ろした。看護師から聞いた病院名を教える。

「今から行くから」

「もう面会時間が過ぎてない?」

 看護師さんがすまなそうな顔つきで、言い添えた。

「すみません。もう時間外なのでご遠慮いただいてます。明日は大丈夫ですよ」

 そのことを夫に伝える。朝一番で病院に行くと言われた。それを聞いて、夫が元に戻ったのか、とぼんやりと思いながら電話を切った。

「痛みますか?」

 看護師に聞かれて自分の腹がずくずくと痛んでいることを思い出した。

「痛み止めを出しましょうね」

 看護師がカーテンを閉めて行ってしまった。

 お札が効力を失ってから眠ると悪夢の連続だったが、今日だけは安眠できる。夜中に夫の奇行を目にすることもない。それが嬉しい。

 看護師から痛み止めをもらって飲み、ほーっとため息をついて、目をつむった。


 いつの間にか眠っていたようだ。足に重みを感じて目が覚めた。なぜか手足が動かず、目だけが動かせる。初めての金縛りで、体がまったく動かせない。そのかわりに目玉だけが四方を見ることが出来た。耳元で激しく風が吹いているような音が聞こえてくる。重みを感じる足下から寒気がじわじわと上半身まで這い上がってきた。どうにかして体を動かそうと、結花子は手の指に力を入れた。悲鳴を上げたくても、声にならない。喉まで金縛りに遭ったかのようだ。足にのし掛かる重みが次第に上へ移動してくる。怖くて仕方がない。どこからそんな酷い恐怖がやってくるのか。きっと足にすがりついている何かが自分を恐怖させているのだ。首が勝手に動き、目をつむりたいのに閉じられない。何が自分の上に乗っかっているのか、見たくなくても無理矢理見させられる。

 暗闇の中、かけ布団を小さな手が掴んでいる。赤ん坊ほどの大きさの何か。目をこらして見続けているとだんだんと暗闇に目が慣れてきて、それが何かわかった。

 おかっぱの童子姿の日本人形だった。まさか家にある人形かと恐怖して、目をそらしたかったが、目が離せない。赤ん坊くらいの生々しい重みがあるそれが、ずりずりと這いながら自分の胸まで上ってきた。桐塑で作られた無表情の人形は、真っ白な肌に黒々とした瞳をしていて、ほのかに桃色がかった口元の中には歯が生えていた。それが堪らなく不気味だった。このままだといずれ人形の顔が自分の顔と向かい合う、というところで結花子は気を失った。


 名前を呼ばれて、目を開けた。

 辺りは明るくなっていて、朝だと気付いた。ベッド脇に夫が座っている。げっそりと頬のこけた顔を笑みにほころばせて、腕に人形を抱いている。それはなんだ、と言おうとしたときに夫が手に持った人形を抱き上げて、結花子に近づけた。人形の口元に歯が生えているのが目に入った。

「いやっ」

 思わず悲鳴が漏れ、顔を背けた。夫がニコニコと笑いながら人形を結花子の腹の上に寝かせる。金縛りに遭ったときの通り、おかっぱ頭の男児の日本人形で、絣《かすり》の着物を着ている。

「酷いなぁ、この子が拗ねちゃうじゃないか」

 夫の言葉など耳に入ってこない、ひたすら腹に乗せられた人形が怖いだけだ。

「それは何なの」

 顔を背けたまま、結花子は震える声で聞いた。

「新入りの子だよ。かわいがってあげようね」

「なんでそんなもの買ってきたの? そんな人形見せないで!」

 必死の思いで拒絶してみせた。それなのに夫はヘラヘラと笑っている。

「きっとおまえも気に入るよ。早く家に戻ろう」

「あの家に戻るのは嫌! 引っ越したい」

 四人部屋であることも構わずに、結花子は声を大きくして拒絶した。

「そんなこと言うなよ。我が家じゃないか。いずれ慣れてくるから」

「なんでそんなに人形にこだわるの! あの人形、良くないものが入ってるって住職さんが言ってたんだよ」

 結花子の悲鳴が部屋に響く。

「良くないもの? 住職さんの勘違いだろう? 人形のことはそのうちにわかるから大丈夫だよ。そのときが来たら、ちゃんと教えてくれるから」

 薄ら笑いを浮かべ、夫が猫なで声を出した。夫の表情に怖気が走る。ギリギリまで嫌だと主張したが、夫に自分の意思を一蹴されてしまった。

 近くにいた看護師も苦笑いを浮かべている。皆、結花子の気持ちを無視するのが悔しくて仕方なかった。


 入院中、どこから聞いてきたのか、亜美が見舞いにやってきた。夫と自分は社内恋愛から結婚したので、自然と夫の口から入院したことが広まって、亜美も社内で聞きつけたのに違いない。

「なんでアタシに連絡してくれないの」

 責めるような口調の裏で、亜美が残念そうに言った。きっと心の中では、結花子がたいした怪我もなく、子供も無事なのを見てがっかりしているに違いない。

 白々しい亜美の態度を見て、結花子は胸の内にわだかまるものを感じる。あなたは夫と浮気をしただろう、自分が流産すればいいと思って見に来たんだろう、と口にしたかった。亜美には夫との子がいて、恥知らずにもその妻に堕胎に関する愚痴を言うのだ。こうして見舞いに来ること自体、厚顔無恥も甚だしかった。けれど知りたいこともあるし、取り乱して騒ぎたくなかった。

「壱央さん、電話かけても出てくれないんだけど、何かあったのかな」

「壱央? 今里帰りしてるらしいよ」

「宮古島に……」

 なぜこんな時に実家に帰っているんだろう。頼りたいときにいないだなんて酷すぎる。

「今の時期に宮古島っていいよねぇ。自分の田舎がリゾート地だったら、サイコーだよね」

 亜美が明るく言ったが、結花子は笑えない。笑わない自分に、亜美が気遣うように笑いかけた。

「ごめんごめん。ユカは、今すごく不安なんだよね。でもおなかの子は大丈夫って言われたんでしょ?」

「一応。亜美は?」

「アタシ? 順調だよ」

 だんだん話も途切れがちになり気まずい空気が流れて、夫が見舞いにやってきたのを合図に、亜美が椅子から立ち上がった。

「アタシ帰るね。退院したら遊びに行っていい?」

「忙しくなかったら」

 亜美が、暗に込めた「来るな」という空気を感じたのか、そそくさと病室から出て行った。


 家にいなくても悪夢を見る。夜中、腹に重みを感じて目を覚ますと、歯をむき出して笑う日本人形が乗っている。体が動かせるようになると体中汗だくになっていて、家と同じように睡眠不足なのは変わりなかった。

「井野さん、おはようございます。今日は眠れました?」

 朝の検温時に看護師が訊ねてきた。結花子は目の下にクマを作って、怠そうに体を起こした。

「いいえ……。寝ても目が覚めて……」

 妊娠後期に入っているが、睡眠薬は出しづらいのか、医師や看護師に軽い運動やアロマなどのリラックス効果があるものを勧められた。そんなものが効いていれば、普段から体力を消耗していない。それでも、あの家から離れているというだけで日中のストレスは軽減された。出来たら臨月までここに入院していたかった。


 週末になり退院した後、結局、谷地の家に戻った。

 結花子は自分の眼前にある不気味な家の前に立ちすくんだ。入りたくなくて仕方ない。夫が強引に結花子の腕を掴み引っ張る。半ば引きずられるようにして玄関に上がった。

 いきなり鼻をつくカビの臭いに驚く。たった三日間空けただけなのに、家の中に異臭が充満している。この臭いも何もかも井戸ではなく、人形に関わるものなのだ。井戸は埋めてしまったし、赤ん坊の骨は供養してもらった。それでもなお異変が起こるならば、それは人形のせいとしか考えられない。

 また、怪異が日常に戻ってきた。いや、怪異の中へ結花子が戻ってきたと言うべきか。どちらにしても、谷地の家の玄関をくぐり、中に入った時点で呪詛から逃げ出せなかったのだ。再び、毎日怯えながら生活しなければならなくなった。


 早めに床についたのだが、激しい猫の鳴き声に目が覚めた。一度起きると目が冴えて仕方ない。隣を見ると、夫が静かに寝息を立てている。猫の鳴き声がまだ聞こえてくるので、結花子は様子を見ようと思い、耳を澄ませる。縁側に出て、外へ頭を出して覗いてみるが、反対に猫の鳴き声が遠くなるのに家に入ると大きくなる。結花子は声を辿り、雪見障子を開けて居間に入った。どうも猫の鳴き声は家の中から聞こえてくる。まさか仏間にいるのだろうか、と不安になる。嫌なのに、雪見障子を開けた。ふすまの向こうから、猫の鳴き声がする。見たくもないのにふすまに手をかける。そっと数センチだけふすまを開いた。

 着物姿の知らない男の背中が見える。腕を振り下ろし、ダンッダンッと音を立てていた。手に握られた鉈を畳に打ち付けているのがわかった。鉈を振り下ろすたびに空気が生臭くなる。辺りにビチビチと何かが飛び散っている。耳が痛くなるほど猫の大きな鳴き声が響いている。

 何をしているのだ。鉈で何を切っているのだ。男が覆い被さるように隠しているものの正体を知りたくて、もう少しふすまを開いた。男の足下に水たまりがある。水は鮮明に赤く彩られていた。なぜ真っ暗なのに、男と血だまりが見えるのか、結花子は気付かなかった。しかし、男が鉈で切っているものがなんなのか、はっきりと見えた。

 激しく泣いている赤ん坊の指を男は無残に切り落としている。

 猫の鳴き声じゃなかった。結花子は込み上げてくる吐き気に口元を手で押さえた。

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