忌み地 第一章 結花子④
十三日を過ぎた頃、結花子はもう一度、人形のことで夫に相談した。カビの掃除をする度に、人形の視線を感じて仕方ない。気味が悪いものをいつまでも家の中に置いておくつもりなどなかった。それなのに、夫はいとも簡単に言い放ったのだ。
「何言うんだ、あいつらもよく見たら可愛いもんだ。生まれてくる赤ちゃんの遊び相手になってくれそうじゃないか」
え? と聞き返しそうになった。結花子の知らない間に、夫の中で日本人形の印象が変わっている。
「でも、気味が悪いって……」
すると、夫が見慣れた不機嫌な表情を浮かべた。
「気味が悪いだなんて言った覚えはないけど」
それ以上、結花子も反論するのはやめた。仏間が気味悪いと言ったはずなのに。それとも気味が悪いのは仏間だけで、人形は含まれていないと言うことなのか。それでも、不機嫌な夫の顔を見るのが怖くて、結花子はそそくさと立ち上がって台所へ引っ込んだ。
朝から夫の様子がおかしい。頬が赤く、熱があるように見える。
「ねぇ、大丈夫? 熱があるんじゃない?」
「そうかな……。熱がある感じじゃないんだけどな」
結花子は心配で体温計を渡して、熱を測ってもらった。しかし、どう見ても熱があるように見えるのに、平熱だった。
「なんかめまいがする……。二日酔いみたいな感じだ」
夫が始終、気持ちが悪いとぼやいている。
「一応、病院に行ってみる? 私、車出すよ」
「そうだな」
町に出て、総合病院の内科で見てもらった際に、念のためにCTを取ってもらったが、異常なしだった。
それ以来、原因不明の体調不良が数日ずっと続いている。休んではどうか、という結花子の助言も無視して、夫は毎日出勤していった。
結花子も家に対する嫌悪感が日に日に募り始めていた。
最初は仏間に気味悪いものを感じていたが、それが家の中を徐々に侵食していくように広がっていった。
昼食を食べ終えて、洗い物をするためにシンクの前に立ったとき、廊下がギシギシきしむ音がして、ズシンとした重たい気配が背後に感じられた。圧迫感のような気配は微動だにせず、結花子の背後にある障子を挟み台所を覗き込んでいるような気がした。首筋に粟立つような怖気が走る。とっさに振り返ったが何もいなかった。
洗い物を済ませて、廊下を軽く雑巾がけしていると、電灯を付けても暗い、廊下のどん突きの壁に人が立っている。とっさに横目で見てみたが、暗い影がどんよりと凝っているようにしか見えなかった。
夕食後にそのことを夫に言うと、夫はテレビを見ながら生半可に相づちを打って相手にしてくれない。早く帰ってきてくれても、結花子の不安を拭ってくれるわけではない夫に、少しずつ不満が溜まっていく。
「寝る」と一言つぶやいて、夫は寝室へ行ってしまった。結花子はその背を見つめ、疲れているから自分の話を聞くのが怠いのかもしれないと考え直す。体調が優れないまま数日が経つ夫に、家が気味悪いという話ばかりしていたらさすがに気が滅入るだろう。なるべくこの話題は控えたほうがいいのだろうか。一人きりになった居間が、だんだんと日が暮れるように照明が落ちていく錯覚を覚える。明るく光を放っているのはテレビだけで、部屋の四隅には暗闇が息を潜めている。結花子も急いで寝る支度をして、寝室へ行った。
早朝、雨戸を開けるために一旦仏間の前の廊下に出たとたん、結花子は悲鳴を上げて足を廊下から引っ込めた。ふすまが閉まっている廊下に日本人形が一体、転がっている。結花子は固唾を呑んで人形を見つめていた。微動だにしない人形へ恐る恐る近づいていき、桐塑を触らないように服をつまんで持ち上げた。四十センチほどの人形なのにずっしりと重い感覚があった。胴体部分に小豆か米か何かが入っているのだろうか。しかし、わざわざ着物を脱がし、胴体を裂いてみたいとは思わない。そんな想像をしたときに夢の中の女を思い出して寒気がした。
廊下に面するふすまを開け放ち、仏間の中に入って手に持った人形を床の間に戻した。改めてよく見てみると本当に生々しい顔つきをしている日本人形ばかりだ。もしかしたら、高価な人形もあるのかもしれないが、品がある整った顔つきと言うよりも生きているような表情を浮かべ、ジッと結花子に視線を注いでいるように思える。結花子が移動するのを視線が追ってくる。人形はそういうふうに作られていると聞いたことがあるので、無理に思い込もうとするが気味が悪いことには変わりない。急いで仏間を出て小走りで台所に逃げ込んだ。
震えながら朝食を作っているうちに、だんだんと落ち着いてきた。仏間に線香とご仏前を上げに行くのは気が重たいけれど、人形を見ないようにしてそそくさと仏間を出た。
朝食を居間で食べている夫の顔色は青黒く、とても健康体だという医者の言葉を信じることが出来ないほどだ。そんな夫に朝起きたことを愚痴るのは、気が引けて何も言えないまま、夫を見送った。
それから午後まで何事もなく、朝起きたことも忘れ、明るい縁側に座って読書をしていると、かすかに足音が聞こえた。子供のような軽い足音で、コの字の廊下を行ったり来たりしている。結花子は雪見障子を見た。誰かいるならば影が雪見障子に映るはずだ。けれど、そこには誰もいない。顔を上げたとたん、足音は止んだので、結花子は縁側から外を覗いた。天気のいい午後だが、子供の姿すらない。見えないだけで、外から聞こえてきた足音を家の中で聞こえたと勘違いしたのだ、と思い込むことにした。
昼間は一人きり、夜は夫と二人。けれど、本当にそうなのかと思ってしまうほど人の気配がする。気が滅入るので夫が眠ってしまったあと、寝室から抜け出して居間に行き、友人の亜美に電話をした。
「この家、気味が悪い……」
「旦那は今どうしてるの」
「寝てる」
結花子は寝室に続く障子を振り返って答えた。
「気味が悪いってどういうこと?」
「なんだかだれかがいるみたいな感じがする。昼間一人でいると足音が聞こえるんだよ」
夫を起こさないように結花子は声を潜めながら話した。
「気のせいじゃない?」
「気のせいじゃない。外も確認したし、人形も気味悪い」
人形という言葉にため息のような同意の声を亜美が漏らした。
「確かにねぇ」
「あの人形、触ってないのに廊下に落ちてたりするんだよ」
「旦那が寝てる間にこっそりいたずらしてるんじゃない?」
友人はわざとらしい明るい声で返してきた。本当に夫がわざわざ夜中に人形を廊下に置いておくようないたずらをしているのだろうか。何のために? 妻を怯えさせてどんな得があるのか。
「なぜ寿晶さんがそんなことをするの」
すると、やはり無理があったと亜美自身も思っていたのか、軽く笑う。
「冗談冗談。なんでだろうね」
気を紛らわすように、共通の友人の噂話や他愛ない世間話を交わした。そのうちに眠気を覚えて、時計を見ると夜半を過ぎていた。
「明日早いんだった。遅くまでごめんね」
「え、もうそんな時間? アタシも仕事あるし、もう寝るね」
結花子は電話を切って深くため息をついた。そのとき、廊下でバンッという音がした。
息を引く悲鳴を上げて、台所のほうを向いた。閉め切った障子の向こうが再び静かになった。まるで誰かがふすまを両手で叩いたような音だった。恐る恐る障子の引き戸を開けて廊下を覗く。真っ暗な廊下に居間の明かりが差し込んで、かすかに廊下の様子が見えた。左右を確かめるが、何もないし、だれもいない。なぜ音がしたのか、理解が及ばない。結花子はズリズリとすり足で退いた。まるで廊下からわけのわからないものが這い寄ってくるような恐ろしさが込み上げてきて、急いで寝室の障子を開けて中に飛び込んだ。
夫はそんな騒ぎにも目を覚まさない。枕元のライトに照らされている安らかな寝顔を見て、ようやく胸をなで下ろした。
すぐにパジャマに着替えて、布団に潜り込む。目をぎゅっと閉じ、何も考えないようにしたが、やはりそれは無理だった。このまま眠られないのではないかと思ったが、いつの間にか眠りの淵に沈んでいく。
うとうととしていると、遠くで濡れた素足が廊下の板を踏んでいる。ベタッベタッと言う音と共にピチョンという水が滴る音が聞こえてくる。うっすらと眠い目を開けて、夢うつつのままその足音を聞き続ける。その足音はゆっくりと仏間を囲む廊下を何度か往復したあと不意に消えた。
毎日眠りが浅い。悪夢を見ない日があってもコの字の廊下を歩き回る音が聞こえてきて浅い眠りから引きずり起こされる。引っ越ししてからろくに眠れない日が続き、結花子もげっそりと頬がこけるほど疲れ切った。
どうしても辛抱できなくなって、夕食のときに夫に訴えた。
「引っ越したい」
不意にそんなことを言われて、目を見開いた夫が結花子を見た。
「どうした?」
「気味が悪い。変な夢見るし、変なこともある」
「変なって……。そのくらいのことで引っ越したいとか言うなよ」
「でも、貴方も具合が悪いし、私、もう疲れた」
思い切って訴えたが、夫は結花子から目をそらして料理に視線を移した。
「越してきてやっと二週間過ぎたばかりなんだぞ。売れるまで住むって叔父さんと約束したんだ。わがまま言うんじゃない」
わがままじゃない。本当におかしなことが起きてる。それを伝えたいのに、結花子はぐっと言葉を呑み込んで黙った。夫の無理解が悲しくなって俯いたまま込み上げてくる涙を堪える。泣きそうな結花子を横目に見て、不機嫌そうに夫がわざとらしくため息をついた。