見出し画像

忌み地 第四章 結花子⑥

 また夢を見る。

 結花子は灰色の曇天を見上げていた。視界の端に覆い被さるように葦が茂っている。自分は湿原に横たわっているようだ。

 自分だけではなく、他にもたくさんの屍が転がっている。腹を裂かれた孕み女たちが、赤ん坊を取り上げられて恨み辛みの涙を流し、怨嗟を口から漏らしているのが聞こえる。死んだ赤ん坊はどこへ行ったのだろう。体の一部を奪われた孕み女は腐りながら、泥と混じり合いながら、蕩けていく目玉を動かし、盗人を捜し続けていた。

 結花子の腹を裂いて、泣く赤ん坊を連れ去った男の顔が思い出せない。死んでもなお肉体にとどまり、湿原のよどみに浮かんでいる。蛆が皮膚の下に潜り込み腐肉をむ。

 腐り果て骨となった自分が見る夢のなかで、打ち捨てられた屍肉が湿原全体を埋め尽くす。それを踏み歩く男の丸まった背中を恨めしそうに見ているしかなかった。

 湿原に土砂が投げ込まれて、骨はうずもれていく。ぬかるみに沈む結花子だったものは怨嗟を孕んだまま土砂の下敷きになっていった。


 先生が訪れるまで、結花子は必死で平静を保っていた。見なかったことにする、わからなかったことにする、聞こえなかったことにする。

 もちろん先生のことは夫には黙っていた。ばれてしまったら、先生は追い出されてしまい祈祷を最後までやってもらうのが厳しくなるだろう。そうしたら、しわ寄せは全て結花子に来る。おなかの子を守るためにしたことが全部水の泡となる。

 夫が会社に行っている間に、先生が谷地の家に訪れた。弟子の運転する車が敷地内に駐車する。すでに先生は白い巫女装束に身を包み、いつでも霊視出来るように準備万端の様子だ。結花子は恭しく先生を玄関に通した。先生が、鋭い目つきでじろじろと、まずは居間とそのほかの部屋を視ていき、最後に障子を開けて廊下に出た途端、顔をしかめた。

「邪気があちこちに漂っておるぞ。特にこの部屋から湧いて出てきておる!」

「ここが仏間です……。人形もここに置いてあるんです」

 先生がふすまをやぶにらみ、低く呻いた。

「おお、感じるぞ……。悪霊が渦巻いておる」

 結花子はふすまを開けて、先生を仏間に通した。心なしか、先生の歩き方がぎこちない。先ほどまでのキビキビした動きではなく、よろよろと足下がおぼつかないようだ。もしかすると霊を祓うのに必要なことなのかもしれないと思い、静かに見守った。

 仏間は相変わらずカビ臭い。仏壇には枯れた菊の花が活けてあって、結花子が毎日捧げているお供物は盆の上でひっくり返っている。

 先生が床の間に並ぶ日本人形にさっと目をやった。瞬く間に顔色が変わったのを、結花子は見逃さなかった。力のあるすごい先生でも、この人形の前ではたじろぐのだと思った。

 後ろから付いてきた弟子が、仏壇の前ではなく、人形の前に簡易な祭壇を作った。しっかり準備万端整った先生が「ぐうう」と唸ってよろよろ床の間に近づき、たまたまなのか、それともわかっているのか、奥にある一番古い木彫りの人形をわしづかみにした。

「これが諸悪の根源だ!」

 そう叫んで、人形を手荒に扱った。その拍子に、人形のほころびた着物の布地が裂けてしまい、中からおがくずではなく白い小さなかけらがたくさん落ちてきた。結花子は畳にこぼれ落ちるそれを見て背筋が凍った。畳に転がった木彫りの人形の目が結花子たちを睨んだような気がした。

 次の瞬間、先生が震えながら悲鳴を上げる。

「これはいかん……! これは私の手には負えない」

 どういうことか、と結花子は驚いた。先生は悲鳴を上げた途端、よろよろと仏間を出て駆けだした。お気持ちも受け取らず、弟子がすぐさま荷物をまとめて、あっという間に家を出て行った先生のあとを追っていく。

「先生、どこへ行くんですか!」

 結花子は追いかけたけれど、さっさと先生は車に乗って去ってしまった。

 残された結花子は嫌々ながらも仏間に戻り、畳に落ちている古い木彫りの人形を手にした。着物が裂けて、中に詰められていたものが畳の上にこぼれている。

 しゃがみ込んで、白いかけらを手に取った。それは小さな骨のようなものだった。

「これ……」

 以前、仏間で男が鉈を赤ん坊に振り下ろしている幻が脳裏に蘇った。

 男は赤ん坊の手を切り刻んでいた。小さな手が鉈でダンッダンッと刻まれていくのを見て自分は気絶したのだと思い出す。あれがもしも、ここでおこなわれていたことならば、あの人形の中にあるものは赤ん坊の指か、体の骨だ。指の骨だけでなく、ざらざらと他にも白い石のようなものがこぼれ落ちてくる。小豆か何かと思っていたものが骨だったとは想像すらできなかった。これを見て、先生は逃げ出した。何がいけなかったのか、結花子にはわからないが、見捨てられたことだけは理解できた。

 結花子は骨をまた人形の着物の中に押し込んだ。今起きたことを見なかったとは出来なさそうだ。先生まで逃げ出すほどの邪悪なものが、本当にこれらの人形たちに込められているのか。

 結花子は人形を畳に置き、台所からゴミ袋を持ってきて、木彫りの人形を始め、他の人形もゴミ袋に詰めていった。自分は祈祷も何も出来ないが、捨てることなら出来るはずだ。一度は諦めたけれど、今しかないと思った。

 人形をあらかたゴミ袋に詰めると、突っかけを履いてゴミ収集所に持っていった。燃えるゴミとして他のゴミと並べておいたが、特に自分に何か起こるわけではないようだ。

 こんなに簡単なことなら、早く捨てていれば良かった。夫の激高を怖がって人形を捨てることを諦めていたなんて。清々した気分で結花子は家に戻った。

 玄関を開けて居間に入ると、障子越しに開け放った覚えのないふすまが全開になっているのが見えた。嫌な予感がしつつも、スマホを握りしめて、いつでも警察に電話をかけられるようにした。そろそろと障子に寄って行き、耳を澄ます。仏間からは物音一つせず、心臓の鼓動のほうがうるさいくらいだ。意を決し、結花子は障子を開けて廊下に出た。すぐさま仏間に入っていき、気付いてしまった。

 誰もいなかったかわりに、床の間には四十一体の人形が並べられてあったのだ。

 ひっと息を飲んで立ちすくみ、背筋にぞっと怖気が走る。ゴミ袋に入れてゴミ収集所に捨てたはずなのに、人形たちが元に戻っている。近所の人が届けてくれたという答えはありえない。行くときも帰るときも結花子一人だけで、だれかに道で追い抜かれた覚えもない。

 では、なぜ人形が目の前にあるのか。結花子は混乱して仏間から飛び出し、雪見障子を勢いよく閉めた。すぐにふすまを閉じなかったことを後悔する。仏間からゾワゾワと蠢く黒い塊が這い出してきて、雪見障子にへばりつく。人の形はしていない。それなのに、くもり障子にへばりついた黒いものが障子に手をつくと、黒い小さな手形がぺたりと付いた。それがずるりと滑り落ちる。もう一度とペタリと付く。滑り落ちる。こちらに来たそうにペタペタッと二、三個右手、左手関係なく障子についた。天井から床まで、手形に埋め尽くされてバンバンと雪見障子が叩かれる。黒い塊から途方もない悪意を感じた。

 どのくらいその黒い塊と対峙していたかわからないが、気付くと雪見障子の向こう側には何もいなくなっていた。ただ無数の手形だけが残っていた。


 翌日の午前中に三宮祈祷所に電話をした。ちゃんとあれを祓ってもらいたかったので、催促のつもりだった。

「井野です。昨日はお世話になりました。先生にお祓いの続きをお願いしたいんですが……」

 電話口の向こうは慌ただしくしているのか、ざわざわと人が騒いでいる。

「すみませんが、先生はそちらに行けません」

 いつもは横柄な口調の弟子が、慌てふためいているようなうわずった声で答えた。

 結花子はそれを聞いて苛ついた。一度依頼したことを最後まで終わらせずに無視するのだろうか。

「そんな……、お気持ちもちゃんと準備してますから、最後までお祓いしてください」

「出来ないんです。先生、お亡くなりになったんですよ」

「え? どうして」

「霊視の最中に発作を起こされて」

 結花子は耳を疑った。まさか人形と関わった人間は偶然にも死んでしまうのだろうか。でもそれならなぜ自分は死なないのだろう。過去帳には本妻が第一子を産んだ後、死んだと記録されている。自分の場合はこの子を生んだ後に死ぬと言うことか。

 電話を切り、脱力して深くため息をついた。逃げようがないと言うことなのか。このまま死ぬしかないのか。

 死にたくないし、おなかの子を失いたくない。自分たちにはまだ逃げ道はあるのではないか。この家を出れば逃げ切れるのではないか。

 急いで寝室へ行き、ボストンバッグに手当たり次第に衣類や持ち物を詰め込んでいった。今のうちに逃げ出せば、夫にも見つからないはずだ。時計を見ると十二時過ぎだった。急げば大丈夫だろう。きっと逃げおおせる。 

四 壱央


 壱央いちおは祖母に電話した翌日には、宮古島の地を踏んでいた。

 祖母に井野結花子の話をしたのだ。すぐさま祖母は帰ってこいと強く言ってきた。

 気味の悪い画像を送ってきた彼女には、「床下を調べてみろ」と忠告したけれど、あの後も木彫りの人形はしつこく自分に付いてきている。果たして宮古島までやってくるのか。

 井野家以外の人間に対して悪意を持って存在しているのは、明らかに呪詛めいている。昔は井野家の守り神だったのは間違いないが、何かしらきっかけがあり、守り神ではなく害をなす存在になってしまったのだ。多分それは自家中毒のように内部でコントロールできないものになったのだろう。そうなると壱央の力では何も出来ないが、祖母ならば得意分野だ。

 仕事は自営業のおかげで宮古島に戻っても問題なく続けられるのが幸いした。

 家に戻ると、祖母に玄関口で迎え入れられた。小柄で色黒の祖母の姿を見たら、壱央はようやくほっとした。しかし、祖母は壱央を見た途端、眉をひそめる。

「壱央、何を憑けてるのさ。そんなもんをうちに持って上がるな」

 祖母には人形が視えているのだろう。

「背中、見せてみろ」

 祖母の言うとおりにする。屈んだ壱央の背中を祖母がパンパンとはたいた。応急処置だが一時的に人形を離したらしく、ようやく家に上がらせてくれた。荷物を置き、まずは仏壇に手を合わせた後、ダイニングのテーブルに着いて、祖母にもう一度結花子のことを話した。

 祖母は目をつむって、壱央の話を最後まで聞いてくれた。

「あんた、それ呪詛さ」

 祖母が気難しい顔つきで言った。

「しかも、単純なものじゃないさ」

 壱央は首をかしげる。壱央には、人形を使い、一族の繁栄を祈願したところまではわかった。おそらく人形にはかつては赤ん坊の霊が閉じ込められていたのだろうが、今は違う。ずいぶん昔に赤ん坊は人形に封じられて呪詛に使われたのだろう。赤ん坊の霊が逃げてしまわないようにまとめて閉じ込めた場所があるはずだ。壱央が見せた画像について、これが閉じ込められていた赤ん坊のなれの果てだ、と祖母は推察した。でも、と続ける。

「呪詛は二つある。それを封じないと、この家の人間は狂っていくよ」

「狂っていく?」

「そうさ。床下の穴に赤ん坊を放り込むのが見えるよ」

「井野家の祖先が?」

 祖母が冷えたさんぴん茶をすすった。

「多分。完成形の呪詛は人形と赤ん坊さ。もう一つは結果的に呪詛になったのさ」

 壱央は眉を顰めた。井野家には二つの呪詛が存在する。そんなことに全く気付かなかった。結果的に呪詛になったとはどういう意味だろう。

「あんたに憑いてきた人形は最初のものさ。最初に完成形の呪詛を作った人間がいたんだ。穴も同じ。あんたが行った土地は元々水場だった。土地一帯に呪いがかかってるのさ。その呪いを家にかき集めたんだ」

 土地一帯に呪いがかかっている。それはどんな呪いなのか、壱央には見当も付かない。

「一族が呪われてるってことなの、ばあちゃん」

「そうさ。最初の呪詛のほうが力が強い。それを利用するために別の呪詛を混ぜて作ったから、二つ目の人形の呪詛が上手くいったのさ」

「じゃあ、それを井野さんに教えないと」

「今、その女の人に関わるとあんたの命が危ないよ。私は反対だ」

 壱央は結花子のことを思い出す。げっそりと痩せた彼女は毎日起こる怪現象に怯えきっていた。自分も同じだ。呪詛を解かなければ、自分の命も危うい。だからこそ祖母を頼って宮古島に帰ってきたのだ。

「なぁ、ばあちゃん。俺、今からでも遅くないかな」

「何をさ」

「修行。視えるだけじゃ、何の役にも立たないから。それに俺自身で霊を祓ったり出来るようになったら、井野さんを救うことが出来るかも」

「それはおこがましいさ。でも、修行はしたほうがいいね。でないと、あんたが殺されるからさ」

 その日から修行が始まった。

「その携帯電話は修行中は使ったらいけないよ。修行中、あんたと縁が出来た呪詛に関わると、もう離れないからね。今は人形を騙せてるから、今のうちに力を付けるほうがいいさ」

「わかった。ばあちゃんがスマホを預かってて」

「いいよ。ばあちゃんに貸しな」

 それから四ヶ月ほど壱央は宮古島にある御嶽うたきを回りながら、祖母に言われたとおりに過ごした。結花子の臨月はもうそろそろだ。しかし、彼女は呪詛にかかっているから、無事に出産できるかわからない。産んでしまう前に呪詛との因縁を外さねばならない。

 人形に封じられた赤ん坊の魂は、れ物を壊すことで解き放てるだろう。媒体を失った呪詛は霧散する。もしくは別の呪詛に取り込まれるだろう。

 井野家に二つの呪詛がかかっているのならば、その一つを壊せば、もう一つの呪詛の根源が見えてくる。

 壱央にかかった人形の呪詛も解けるかもしれない。結花子に関わる限り、人形はどこまでも壱央を追ってくるだろう。怖くないというのは嘘になる。怖くて仕方ないから、修行を続けているのだ。けれどそれにも時限があった。結花子の出産までに、なんとかせねばならない。

 朝食をとりながら、壱央は祖母に訊ねてみた。

「ばあちゃん、そろそろ大丈夫かな?」

「修行かい?」

「井野さんをなんとか呪詛から引き離すことが出来るかな」

「それはわからんさ。ただ自信を持って、今までやってきたことを実践するしかないさ。怯えたらつけ込まれる。出来るかい?」

 つけ込まれるとは死ぬということだ。

「一度修行を始めれば一生修行しなくちゃいけないよ。出来るかい?」

「もう覚悟出来てるよ」

「この呪詛は関わりを持ったら二度と離れんさ。呪詛を解くまでは一生続くよ」

 現に宮古島に行くまで、壱央の前に人形は何度も姿を現して、決して離れてくれなかった。この修行は壱央の身を守るための修行でもあったのだ。

「わかった」

「じゃあ、私の教えたことを忘れんように、これを渡しておくよ。これがあんたの力を増幅して守護してくれるさ」

 と言って、祖母が自分の数珠を渡した。それは小さな数珠玉がいくつも連なった長い数珠だ。

 その日は祖母から、力の使い方や今回壱央が挑戦する呪詛解きについて、とくと言い聞かせられた。

 宮古島から飛行機に乗って都心部まで何度も乗り継いで移動し、結花子の住む安達野に向かう。列車に乗ってから、壱央は久しぶりに結花子に電話をしてみた。結花子に、人形を焼き、その土地から逃げることを伝えるために。

いいなと思ったら応援しよう!