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忌み地 第一章 結花子⑥

 気が付けば、結花子は財布とスマホを持って着の身着のまま車を走らせていた。高速に乗ったあと、パーキングエリアから亜美に電話した。

「何、どうしたの」

 まだ終業時間でもないのに電話をかけてくるのが珍しかったのか、亜美が開口一番訊ねてきた。

「もう駄目。家に何かいる。今そっちに向かってるから、しばらく亜美んちに泊まらせて」

「いいけど……。旦那は?」

「寿晶さんもおかしくなってるから、言えない」

「おかしくなってるって?」

「毎晩仏間に籠もって人形に話しかけるの。人形を捨てようと思ったんだけど、寿晶さんがものすごく怒って……」

「人形って、あの?」

 電話越しの声が訝しそうに強くなった。

「ものすごく大切にし始めて、一晩中話しかけてるんだよ。寿晶さん、やっぱり人形に取り憑かれたんだよ。どうしたらいい? ねぇ? どうしたらいいと思う?」

 取り乱す結花子に亜美が静かに言った。

「落ち着きなよ、ユカ。とりあえず、家に来てから話そう? ずっと電話で話してるわけにはいかないでしょ?」

「うん……」

 亜美に説得され、結花子は電話を切った。


 亜美のマンションの近くにあるコインパーキングに車を停めて、結花子は亜美の部屋を訪れた。すぐに部屋に招き入れられソファに座らされる。低いテーブルに亜美がハーブティーの入ったマグカップを二人分置いた。

「さて、何があったか教えて」

 亜美に促されて結花子は引っ越してから順番に起こった怪異を、夫の異変を話していった。仏間の気味悪さ、家全体を包む陰の重苦しさ。毎日掃除しなければ蔓延するカビ、まるで生きているかのような人形たち。言葉に出来ない恐怖をなんとか伝えようと精一杯説明した。

 始終、神妙な顔つきで話を聞く亜美に、結花子は安心を感じた。

「なんか食べようか。簡単なものでいいよね」

 話が途切れたとき、亜美が腰を上げて言った。結花子は慌てて手伝おうと、中腰になった。

「いいよ、ラーメン作るね」

「ごめん」

 結花子は申し訳ない気持ちで座り直した。

「やっぱりさぁ」

 ダイニングから亜美が話しかけてくる。

「イチオに頼んでみようよ。ほんとに霊感あるんだから」

 イチオとは、以前亜美が話していた霊感が強いという人物のことだ。信用できるかどうかはわからないが、亜美が強く勧めるのだから思っているほど変な人間ではないかもしれない。

「でも、お金とか……」

 そう言いかけたら、亜美が笑った。

「無償で相談に乗ってるんだって。なんかそれも修行って言ってた」

「修行……」

 霊感が強いだけでなく霊能力の修行みたいなものもやっているのか。坊主のようなものなのだろうか。

「その人、お坊さんなの?」

「ええ? なんで」

「だって修行って」

「ああ……、だよねぇ。イチオはただの普通の人。おばあちゃんがユタとかいう霊媒師なんだってさ」

 ユタなんて初めて聞く言葉だ。

「ユタって?」

「えーとね……」

 そう言いながら、亜美がラーメンの器を持ってきた。

「沖縄の霊能力者のこと」

「イチオさんって沖縄にいるの?」

 驚いていると、亜美が苦笑いを浮かべる。

「違う違う。イチオはこっちに住んでるんだ。アタシの大学時代からの友達の友達。連絡先は友達に聞けばわかるし、すぐ連絡がつくんじゃないかな」

「そうなんだ」

 沖縄まで行かねばならないかと思って、結花子は一瞬焦った。

「亜美はイチオさんに相談したことがあるの?」

「アタシはない」

 亜美がラーメンをすすり始めた。それを見て結花子も箸を進めた。

「全部友達の受け売りなんだけど、友達の知り合いが心霊スポットに行って取り憑かれたときに除霊したとか、幽霊が出る部屋を綺麗にしたとか、そんな話ばっかりで。幽霊をやっつけるなんてちょっと面白いじゃない?」

 面白いのかはわからないが、言葉では説明しようのない恐ろしいものを見つけ出して除霊をしてくれるならば、それ以上に頼もしいことはなかった。

 早速友達から連絡先を聞いた亜美がイチオに連絡をしてくれた。事前に事情を知っていたのか電話はすぐに通じて、亜美がスマホを結花子に渡してきた。

「あの、井野結花子です。初めまして」

「どうも、赤崎あかざき壱央いちおです。それで、僕に相談って何ですか?」

 いきなり切り出されて、なんと言っていいかわからなくなった結花子は押し黙った。

「僕に相談するってことは霊関係ですよね。家に幽霊が出るんですか?」

 はいとも言えるし、いいえとも言える。幽霊というものが人間のように姿を現して、足音を立てたりものを動かしたりするのだろうか。よくわからず、曖昧に答える。

「多分……」

「質問なんですが、命の危険を感じてますか?」

 切羽詰まった状況ではあるが、命の危険とまではいかない気がする。おかしくなりそうだが、死にそうなほどではなかった。

「命までは……」

「でも急を要する感じ?」

「ええ」

「家に戻れそうですか?」

 壱央が淡々と訊ねてくる。まるでカウンセリングのような感じで、幽霊を祓うからと特殊な質問をされるわけではないようだった。

「一人で帰れます?」

「無理です!」

 これに関してだけ結花子は即答した。あんな家に一人で帰れるわけがない。得体の知れないものがひしめき合っている感覚を一人きりで味わいたくなかった。

「どんなことが最初に起こったんですか」

 結花子の様子にも驚かず、壱央が訊ねてくる。

「夢です……。悪夢を見たのがきっかけです」

 結花子は最初に見た夢のことを説明したが、全てを語らなかった。けれど壱央が聞き終わったあとに言った。

「それだけじゃないですよね?」

 結花子は緊張して体を硬くする。

「夢の内容までは僕は読めませんけど、井野さん、黙ってることがある。そういうのはすぐばれますよ」

 壱央は静かに言った。責めているわけではない声音だ。

「あの……、夢の男は死体とセックスしてました。こんなの恥ずかしくて言えるわけないじゃないですか……」

「確かにね。他には?」

「悪夢で?」

「悪夢ならそれを聞きたいです」

「おなかを真っ二つに裂かれた女の人。赤ちゃんを抱いてました」

「そう、なんだか最初の夢に繋がりますね。で、それらは実際に現れましたか?」

 実際に現れたというのはどういう意味だろう。

「あの……見たってことですか?」

「見てない?」

 足音を聞いたり、気配を感じたりはしたが見たわけではない。結花子は素直に答える。

「実際に起こっていることはなんですか?」

「人形が勝手に動いたり、足音が聞こえたり、気配を感じたり、宅配の人がいないはずの子供を見たり。あとは……、夫が変なんです」

 何もかもが重要だが、夫のことがさらに深刻に感じられた。

「あなた自身が怪我をしたとかは?」

「怪我はしてません」

「じゃあ、実際におかしなことになっているのは旦那さんだけ?」

 夫がおかしくなっただけだと何か問題なのだろうか。

「夫が変になったって信じてもらえないと思いますけど……、でもいつもの夫じゃないんです」

 どうおかしいかは見たまましか伝えきれない。一晩中、仏間で人形に話しかけている夫が異様に見える以外に、実害がないとも言えるから。でも、結花子は息せき切って、今まで起こった怪異を全て壱央に説明した。家を出るきっかけになった、宅配業者が子供を見たと言う話を終えたときに、ようやく壱央が口を開いた。

「その怪異で、井野さんはこうして家から逃げ出してきた。旦那さんの反対で引っ越しもできなくて」

「どうしたらいいですか?」

「うーん、僕に言えることはその家を実際に視ないとわからないってことです。怪異が起こりえる事由が揃ってますけど、それが実害を及ぼすとなると別ですから、ちゃんと視たい」

「視えたら、祓ってくれるんですか? 変なこと起こらなくなりますか? 夫も元に戻ります?」

 電話口の向こうにいる壱央がゆっくりと答えた。

「僕は視えるだけなんです。除霊出来るわけじゃないんです」

「でも」

 結花子は亜美を見る。何を話しているかわからない亜美は不思議そうな顔をする。

「でも、祓えるって聞きました」

「それは根も葉もない噂ですよ。僕は視えるだけ。何があるかわかるだけなんですよ。それでもいいですか?」

 結花子は逡巡した。幽霊が祓えるわけでも怪現象を収められるわけではないが、何が原因かわかれば対処のしようがある。それでもいいから、結花子は誰かにすがってでも引っ越し前の生活に戻りたかった。

「それでもいいです」

「わかりました。僕、今度の土日なら空いてますから、そのときに伺うのはどうですか?」

「ちょっと待ってください」

 スマホの通話口を押さえて、スマホを弄っている亜美に訊ねた。

「亜美、今度の土日空いてる? 赤崎さんがうちに来てくれるから亜美にも来てほしい」

「土日? いいよ」

 ほっと胸をなで下ろして、結花子は壱央に土日の件について承諾した。電話を切り、ようやく結花子はリラックスすることが出来た。あの家の異変が何によって引き起こされているのかわかれば、別の人間に祓ってもらうことも出来る。土日に、家に来た壱央に隅々まで視てもらったら、おかしくなった夫を元に戻す方法がわかるかもしれない。

 さっきからスマホを弄っている亜美に、結花子は何気なく訊ねた。

「彼氏?」

「うん……」

 亜美にしては元気のない返事だ。何度かメールしているようだが、返事が来ないらしい。

「最近ずっとなんだ」

 亜美がぼやき、スマホを伏せて置いた。

「なんかあったの?」

「アタシ、今までユカに黙ってたんだけど、妊娠してるんだ。産みたいのに、アイツ、堕ろせって」

 結花子はなんとも言えない気持ちになった。自分のおなかを見下ろす。自分は産めるのに、生まれることを歓迎されてない子もいる。同じ月齢らしいが、亜美のおなかは目立って大きくないように見える。

「何週目なの?」

「実はもう十九週目なんだ。もう堕ろせないのにね。それでも堕ろせって頭おかしいよ。しかも俺の責任じゃないって言うんだ」

 イライラした様子で亜美が愚痴った。十九週目と言えば、結花子も同じだ。そこまで大きくなったら堕胎は出来ない。

「彼氏とよく話した?」

「ううん、堕ろせの一点張り。最近はメールにも返信しないし、電話にも出ないんだよ」

 亜美がそんな彼氏と付き合っているなど初めて聞いたし、よく考えてみれば、男性と付き合っているかという話になるといつもはぐらかされていた。合コンには出ていたようだから、フリーなのだと勝手に思い込んでいた。

「そんな彼氏とは別れたほうがいいんじゃない?」

 亜美は困ったような顔して首を振る。

「そうだよね……。でも好きなんだ……」

 気まずい空気になってしまったので結花子はわざと明るく、亜美の肩を叩いた。

「でも、同じくらいで私たちママになるんだね。私の子といい友達になれそうだね」

 シングルマザーにはとても厳しい世の中だ。亜美に対して自分に出来ることがあればなんでもしよう。そのことをそのまま告げた。

「ありがと。そのときは頼らせてもらうね」

 亜美が笑ったので結花子もつられて笑う。子供が出来たことに関しては亜美に憂いはないようだった。本当に産みたいのだと結花子にも感じられた。

 亜美のマンションでの二日間、結花子は久しぶりに悪夢も見ずにぐっすりと眠れた。あの家を離れただけでこれほど安心して生活できたのは、引っ越し前ぶりだった。亜美が仕事で家にいなくても、家事を手伝っている時も、不穏な気配も足音も何もない。それだけで精神的に安堵できる。ただ、土曜日になったら帰ることになっているのが、とても嫌だった。

 夫からすさまじい数の電話がかかってきても、結花子はわざと出なかった。とにかく短い間だけでも関係を絶ちたかったのだ。そうすれば、結花子が本気で引っ越したいと思っていることをわからせることが出来る気がした。口では言い返せないが、電話を拒否することは出来るのだ、と自分でも意外だった。要するに、夫の態度を目にすることさえなければ何とでもなる。それも結花子に自信を持たせたのだった。

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