侵蝕 ーとあるマンションの怪異ー エレベーター 【白石】
真夜中にかかってきた電話で、熟睡していた白石はたたき起こされた。『リバーサイド■■南』でまたもやボヤが出たというのだ。
通話を切って寝ぼけ眼でスマートフォンに表示されている時刻を見ると、午前二時を少し回ったところだった。今年に入って二度目、担当になってからの四年間に一体何度ボヤ騒ぎがあったことか。
またかと白石はベッドから起き上がった。現場に駆けつけて消防士と話をしなければならない。今までの経験上、同じようなボヤなら確実に不審火なので、警察にも事情聴取されるだろう。今日は寝られないだろうと覚悟した。
着替えてバッグを持ち、家を飛び出して自家用車でマンションに向かった。
マンションに着くと、火は消し止められたのか、警察と消防士の現場検証が入っていた。近くにいる警察官に管理会社の防火管理者を担当している白石だと告げて、火事の状況について警察に話を訊ねた。
「また不審火ですか?」
「このマンション、今年に入って二度目ですよね」
警察から少し責めるような言い方をされて、白石は寝不足もあって気が短くなっていたせいで、少しとげのある言い方になった。
「ええ。でもちゃんと周知はしてるんですよ。出火元はゴミ集積所ですか?」
まただれか住人がゴミ集積所で喫煙をした後、吸い殻をポイ捨てでもしたのだろうか。
「前回と同じゴミ集積所からですが、出火原因がはっきりとしないんですよ。ゴミ集積所には燃えるゴミの他にペットボトルのゴミ袋はありましたが、そちらには着火してなかったんですよね……」
警察官が首をひねっている。
「何か他に燃えそうなものとか、心当たりはないですか」
警察官の問いかけに、白石も首をかしげる。
「古紙回収は今日じゃありませんし……」
「こう、何度もあるようでは……。何か対策を練っていただけると」
警察から注意を受け、マンションのオーナーと話し合わねばならないなと白石は腕を組んだ。
「すみません、また巡回をお願いして良いですか?」
「放火の疑いもありますし、繰り返していますから、住人の方々にお話を聞かせてもらいます」
「ええ、どうぞよろしくお願いします」
以前も放火の疑いで警察の調査が入った。しかし、犯人は全く分からなかった。近所に疑いのある人物もいなかった。
状況を把握する為に、白石は消防士に説明を受けながら、スロープを降りて地下駐車場へ向かった。
エレベーターと階段に続く鍵付きのドア寄りにゴミ集積所。右手には駐輪場があり、こちらには火事の影響はなかったいようだ。
しかし、白石はスロープを降りきったところで足を止めた。消防士がゴミ集積所から白石を振り返る。地下駐車場の照明が消防士の右半分を照らしている。光の届かない闇が、駐車場のそこかしこに蟠っている。
「白石さん?」
白石は足を止めたまま、消防士の左側の虚空を見つめていた。
そこに女が立っている。
実際には消防士が一人で佇んでいる。多分、この女を白石は目で見ていない。脳みそで視ている。
女の日本髪はざんばらに乱れ、青白い首元や肩に垂れかかっている。俯いているので顔は分からない。青い血管が浮いた両乳房が露わに垂れている。赤い腰巻きを身につけて、足下に水たまりのような跡があり、腰巻きと足下が汚物で汚れているところまではっきりと分かった。
幸いなことにここまで汚物の臭いはしてこない。現実に漂ういがらっぽい焦げ付いた臭いだけが鼻を突いてくる。
女を見るのは初めてではなかった。ボヤのたびに見かける。一体何を知らしめたくて女はここに佇んでいるのだろう。
女が顔をゆっくりと上げる。白石は俯いた。顔を見たくなかった。幽霊を脳裏で視るだけなら平気だ。しかし、顔を見るのは怖い。
早く消えて! と白石は祈った。視線を外せば、姿は見えなくなる。
下を向いた白石の目の先に、黒ずんだ足先があった。ぼたぼたぼたと水状の汚物がコンクリートの床に落ちた。
「うっ」
女が目の前にいる。頭と女の顔が触れあうほど近くに、女が立っている。焦げた臭さと共に大便の異臭と魚が腐ったような強烈なアンモニア臭が漂ってくる。
どうしようどうしようどうしよう
白石の額を脂汗がにじむ。動けない。脳裏に女の黒くなった爪まではっきり映っている。汚物が足下に溜まり、白石の黒いパンプスまで広がってくる。
白石は。
「白石さん?」
「ひっ!」
白石は、悲鳴を上げて後退った。
「どうしたんですか?」
恐る恐る顔を上げると、目の前には消防士が立っていて、困惑した顔つきで白石を見つめている。
注意深く周囲を見回したが、すでに女はあとかたもなく消えていた。闇も幾分和らいだ。
臭いがしたと言うことは、女は白石に干渉しようとしたのだろう。あのままだったら、きっと女は白石に取り憑いた。今までこんなこと、なかったのに。白石は口の中に残る酸っぱい味をつばといっしょに飲み下した。
結局、ゴミ集積所に設置した監視カメラに怪しい人間は映っておらず、もしかしたら、ゴミ自体に発火する原因があったのではないかという話になった。
消防士が言うには、石灰を使用した乾燥剤に水が付くと自然発火するらしく、ゴミの分別に気をつけるように注意が必要らしい。明日、会社に出勤したら注意書きにゴミの分別を記載し、各戸に配布しなければならないだろう。
時刻はすでに三時を過ぎていて、今から寝直すと朝起きられなくなると思った。寝不足のまま出勤することになりそうで、白石はため息を吐いた。
その日の二十時過ぎに、業務を終えた白石は『リバーサイド■■南』を訪れた。スロープを降り、一時的にテープで封鎖されたゴミ集積所の前に立った。コンクリートの床が黒く煤けている。
夜間、一人きりで地下に降りるのは躊躇われたが、幽霊が見えるという理由で業務を放棄しては責任感がない。右手に書類を入れたバッグを持ち、ポケットの中に潜ませた魔除けの角大師の護符を左手で触れる。以前、F県K市にある天台宗の寺院で購入したものだ。
これがあれば大丈夫と白石は自分を奮い立たせた。気の持ちようかもしれないが、お札のおかげで幽霊が近寄ってこない経験上、霊験あらたかであることには間違いがない。おかげで昼間見た幽霊は姿を現さない。
バッグの中からガムテープと注意書きを印刷したA4の用紙を取り出した。ゴミ集積所の人目に付く位置に注意書きを貼り付ける。
一歩下がって、注意書きの位置を確認した。
「よし」
後は警察から返却されたビデオテープを管理人室に戻すだけだ。
結局あれから寝ないで起きていた。今日はぼんやりとして仕事に身が入らなかった。疲れ切った頭で白石は鍵を使ってエレベーターへのドアを開けた。ガチャンと鉄扉が音を立てて閉まる。ベージュに統一された一畳ほどのスペースにエレベーターと階段に通じるドアがある。
無意識にエレベーターの上ボタンを押す。すぐに扉が開いた。デフォルトで一階に停止しているはずなのに、白石が地下駐車場に来る前に誰か利用したのだろうかと、ぼんやりと考える。
乗り込む際大きな鏡が目に入った。扉の正面に鏡が取り付けてあったのだ。
こんな鏡、あっただろうか? 白石はしばらく鏡を見つめていた。自分の姿が映っている鏡面、白石の背後で扉が閉まるのが見えた。
ボタンを押そうと思って振り返ろうとしたとき、ぷんと焦げた臭いが漂った。白石は周囲を見ながら鼻を嗅いで、首をかしげた。ここまでボヤの煙でも侵入したのだろうか。
ふっと気配を感じ、顔を鏡に向けたとき、鏡に自分以外のものが映り込んでいるのが目に入った。
黒いマネキンが背後に立っている。思わず振り返るが、何もない。どころか、背後に一人分のスペース自体、ない。もう一度鏡を見ると、鏡に映る自分の背後に立つ黒いマネキンの腕が増えている。もう一体マネキンが重なり、腕を前に伸ばしているのが見えた。また振り返るが、何もない。
「え? え?」
白石は振り返る度に、自分の背後で増え続けるマネキンの頭と腕に恐怖を覚えて、鏡から目をそらした。
扉を開くボタンを何度も人差し指で押すが、扉は開かない。何度も何度も押し続けた。
『二十時以降のエレベーターの使用はお控えください』
脳裏にフッと、言葉が浮かんだ。忘れていた。オーナーから言われた、このマンションに住む際の注意事項。
背後の気配の圧が増してくる。目の端で黒い指がわらわらと蠢いているのが分かる。同時にさわさわと何かが背中を引っ掻いている。
白石は開けるボタンを諦めて、一階のボタンを何度も押す。すぐにガクンと振動と共にエレベーターが動き始めた。上昇している間も、白石は開くボタンを押し続けた。
背後の気配が、白石の背中を強く掻きむしり始める。腕を伸ばして鏡から身を乗り出したマネキンの、無数の手が自分の背中を掴もうともがいている様子が脳裏に浮かぶ。
開いて開いて開いて開いて
頭の中で念じながら、止まらずに上昇を続けるエレベーターの開くボタンを必死で押し続けた。
背中を引っ掻いている指が服を摘まみ始め、何度も引っ張ってくる。
白石の額を脂汗がじっとりと滲む。塩辛い体液が額を伝ってまなじりに垂れ落ち、目の中が痛い。痛くて涙が溢れてくる。
開いて!
六階に着いて、ようやくエレベーターが静かに止まり、扉が開いた。と同時に、白石は外へ転び出た。
服をつまんでいた指が名残惜しそうに背中から離れる。
白石は後ろも振り返らず、階段を駆け下りた。息を切らしながら、エントランスを横切って玄関を飛び出した。マンション前の道路に出て、初めて足を止めた。後ろを振り向き、玄関の右手にあるエレベーターを見つめた。
心臓の音が高らかに鳴っているのに今になって気付いた。何度も深呼吸をして、呼吸を整える。
背中にまだつままれた感触が残っている。白石は黒いマネキンを思い出して、全身総毛立つ。怖気に首筋がむずむずした。
身動ぎもせず、じっとエレベーターを見ていたが、もしも、あの鏡が勝手に取り付けられたものなら、取り外さなければならない。考えただけで呼吸が乱れた。
ゆっくりと玄関に寄っていき、ガラス越しにエレベーターを眺める。勇気を出して確認しなければならない。
玄関を開けてエレベーターに近づくことが、なかなか出来そうにない。しかし、管理担当者として不審物は取り除かねばならない。何度も息を吸っては吐いて逡巡していたが、意を決してマンションの中に入ることにした。
鍵を差す手が震えている。自動ドアが開き、白石はエントランスへ足を踏み入れた。用心深く空気を嗅ぐが焦げ臭さはなかった。背筋が泡立つような感覚もなく、不穏な気配も感じ取れなかった。もういないかもしれない。ただ、エレベーターを開けるまでは分からない。
指を伸ばして、開くボタンを押すかどうか迷う。何分何秒、指を伸ばしたまま躊躇っていただろうか。しかし、いつまでもこのままではいられない。
押すしかないと白石はぐっと指をボタンに押しつけた。
静かに扉が開く。目をそらしていたが、勇気を振り絞ってエレベーターの中に目を向けた。
鏡はなかった。黒いマネキンもなかった。拍子抜けして白石は呆然と中を眺めていた。あれは一体何なんだろう。鏡がなかったことに少し安心した。
いきなり自動ドアが開く音がして、心臓が飛び出すくらい驚いた。反射的に振り返ると、亜都里が立っているのが目に入った。
亜都里が頭を軽く下げる。
「こんばんは」
不思議そうな顔をして、白石を見ている。白石は慌てて挨拶を返した。その間にエレベーターの扉が閉まる。
「中里さん、お疲れさまです」
「こんな時間にエレベーターの点検ですか?」
「え? ああ、ちょっと確認してたんです」
「夜になると故障するんですよね?」
故障? と白石は首をかしげる。
「二十時以降は乗れないんですよね」
「ああ……、そうですね」
白石は気を取り直して、亜都里に説明する。
「不具合が出るんですよ」
その不具合は霊的なものかもしれないと内心思う。ただそれを告げることは出来ない。さすがに幽霊がなどと言うと亜都里を怖がらせてしまうだろうし、根拠がない。最悪、自分の頭を疑われてしまう。
すぐに階段に向かうと思っていた亜都里が、白石に近寄ってきて困ったような表情を浮かべた。
「どうかされました?」
「あの、騒音のことなんですけど……」
注意事項の騒音のことを指しているのだろうか。
「騒音がどうかしましたか?」
「隣の部屋から夜中までずっと話し声が聞こえて……。白石さんから注意できませんか?」
白石は隣室と聞いて、三〇二号室の川添を思い浮かべた。
「分かりました。わたしのほうで注意いたしますね」
白石の言葉に安心したのか、亜都里の表情が明るくなった。
「お願いします。それじゃあ、お疲れさまでした」
「あ、あの、何か変わったことがあったらいつでも連絡ください」
「はい」
軽く頭を下げて、亜都里は階段を上っていった。
このマンションの騒音クレーム、ほぼ全戸から訴えられている。どれも話し声に関することで、テレビや足音、家具を動かすような生活音ではない。
ただ、亜都里の部屋に関するあることを思い出して、白石は顔をしかめた。
亜都里の部屋の床には穴が開いている。あの穴はまずい。亜都里はまだ気付いてないのだろうか。内見のときどうしても中に入られなかった。穴の中がどうなっているかは分からないが、玄関にいて尚感じる禍々しさに鳥肌が立った。
どうせ、亜都里もいずれ出て行くだろう。前住人のように、引っ越していく気がする。自殺や失踪さえしなければ、それでいいと思った。