屍喰い蝶の島 エピローグ
二十二日が明けた二十三日の朝。
「あのお客さん、どこに行ったがかねぇ。荷物も全部置いていって」
かんべのおかみさんは、客間で夜須の荷物をまとめながら呟いた。もぬけの殻の布団と、のたくった字が書いてある汚い本と何かの地図らしき紙くずを見て言った。
「急におらんなって帰ってこんがじゃき」
おかみさんのぼやきを側で聞いていたバイトの青年が深刻そうな顔つきで言う。
「まさか自殺、なんてことはないですよね?」
「そがな! おまさん、馬鹿なことを言わんでよ!」
「でも財布も何もかも置いていってるじゃないですか」
「遺書とかもないし……、お客さんの家に電話しても誰っちゃあ出んし……、スマホはパスワードがかかっちゅーし……、誰に連絡とったらええやら」
困り果てたようにおかみさんはため息をついた。
晴れ渡った青い空の下、志々岐神社をアクアマリンの店主が毎朝の日課のために立ち寄った。
相変わらず、神主は暇そうに拝殿の端に腰掛けて、松の枝から垣間見える海を見渡している。
「おはようございまーす」
店主の挨拶に、神主が振り向いて頭を下げる。
「これはおはようございます。毎朝ご苦労様です」
「いやぁ、おかげさまで神様に毎日、商売繁盛のお願いをさせてもらってます」
「そういやぁ、今年もひるこさんは出ざったみたいですねぇ」
「へぇ。こういう年が続くといいですね」
「げに。シジキチョウは飛びゆーらしいですよ、また碧の洞窟の上辺りで」
店主が笑顔になった。
「それはいいや。お客さんたちが喜びますね。シジキチョウは綺麗だから」
店主が拝殿を前にして、持って来たお賽銭を賽銭箱に入れると、パンパンと二拍手して頭を下げる。そのまま手を合わせているので、おそらく商売繁盛を祈っているのだろう。
「あの人、シジキチョウは捕まえられたんですかねぇ……」
神主は夜須のことを思い出しながら呟いた。
「え? だれですか?」
お願い事が済んだ店主が聞き返した。
「ほら、あちこちでシジキチョウのことを聞いて回っちょった人」
「ああ」
店主にとっても記憶に新しい。
「ちょっと変わった人でしたね」
「熱心なんでしょう」
神主は夜須のことを寛大に受け止めていたようだ。
今年もシジキチョウという珍しい蝶が見られると、たくさんの観光客がやってきて、碧の洞窟の断崖に登り、空を舞う真っ赤なシジキチョウにレンズを向ける。
「綺麗ねぇ」
七歳くらいの娘に母親が話しかける。娘はもっと近くで見たい、と蝶を追った。危険と書かれた立て札にぶつかり、近くにいた大人に支えられて、倒れずに済んだ。
「ここ、穴ぼこだらけで危ないから、気をつけてね」
若い女性に少女は優しく注意される。
「うん!」
転びそうになって驚いていた様子だったが、気を取り直したようだ。空を見上げて、真っ青な空に鮮明に浮かび上がる赤い蝶を目で追う。
「きれーい」
少女の目が輝いている。その瞳には、ひらひらと風に舞う、シジキチョウが映っていた。