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ないものねだり
あの時の私は、一体何だってあんなに大泣きしたんだろう?まだ小学校に上がるか上がらないか位のお盆か正月、母の実家に泊まりに行っていた私は、一緒に遊んでいたいとこたちが先に帰る段になって、バスを見送りながら大泣きして大人たちを困らせた。当然それは、いとこたちがいなくなってしまう寂しさからくるものだったのは間違いないが、今考えてみると、いとこたちが帰ってしまうなら自分も帰りたいという気持ちもあったように思う。この、他の人がそうなら自分もという気持ちは面倒だ。そう言えばやはり子供の頃、川で魚釣り大会があって見に行ったら、同級生が釣り上げた立派な虹鱒をビニール袋に入れて持っていて、何とか自分も手に入れられないかと釣り竿も無いのに川面を見つめていたこともあったな。
人と同じでありたいというだけでも大変なのに、更に事態を複雑にするのが、同じでありたいと思いながら、同時に私たちは同じは嫌だとも思っているという事実だ。みんなが持っているものは当然欲しいけれど、みんなが持っていないものも欲しいのだ。どちらかにきちんとスタンスを決めている方もどちらも不要という方もいるだろうが、もしくれるならどちらも喜んでというのが大方の場合ではないだろうか?勿論私もそうだ。
若い頃は、甲斐性もないのに外車の雑誌を飽かず眺めていたりした。これの中古だったら何とかなるかな?とか。流石に、買うだけだったら何とかなっても、維持できずに直ぐ手放す羽目になるだろうという位の分別はあったのが救いだ。ものならまだ可愛い方で、何といっても一番厄介なのが漠然とした「何者かになりたい」という思いだった。なりたいものが具体的ならまだ努力のしようもあるが、自分でも何になりたいのか分からないのだから始末が悪い。そもそも、そんなことを考えていられること自体、恵まれた甘ったれだったのだろう。本気の人はとっとと夢に向かって努力をしている。努力をすれば夢が叶うとは限らないが、少なくとも答えは出るし、その答えを基に次への一歩が踏み出せるはずだ。でも、もしここまで読んできて不味いなあと思った人がいたとしても大丈夫、時が解決してくれる。経験者が言うんだから間違いない。但し、解決の中身は目の前の今にどう向き合うかで変わってくるので注意が必要だ。別にそんな偉そうなことが言える今に至っている訳でもないけれど…。そう言えば昔、ユーミンが「けれど平凡だけは嫌よ🎵」と歌っていた彼女は今どうしているだろう?