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#41' アリとキリギリス('23.8.8)

 アリとキリギリスと言えば、将来への備えの大切さを説くイソップの寓話だけれど、そのタイトルを聞いて私が思い出すのは昔読んだ4コマ漫画で、そこにはジゴロみたいなキリギリスが出てきて、キリギリスはキリギリスなりに楽しい冬を過ごしましたとさというオチになっていた。勿論その後でキリギリスが路頭に迷うという可能性もあるけれど、そこまで含めて、案外それが世の中というものであり、キリギリスにはキリギリスの冬というのが本来の多様性ということだったりするのではないかという気もする。
 例えば仕事でも恋愛でも、同じことをしているのに人によって「ひどい!そんな人だと思わなかった!」となる場合と、「仕方ない、あの人はそういう人だから」となる場合がある。理不尽極まりないが、かと言って普通の人が「そういう人」枠に入ろうと思ってもなかなか入れるものでもない。一方、「そういう人」扱いされている人も多分元からそうだった訳でもなく、きっと最初の頃は「ひどい!」とか「ちゃんとしてよ!」とか責められたりしていたのではないだろうか。強い意志と不屈の努力でその地位?を獲得したということでもなく、そうせざるを得ないものがその人にあって、不本意ながらもそうしたことを重ねた結果、いつの間にか「そういう人」扱いを受けるに至ったという、何となく殿堂入りの趣きというか諦めの境地というか…。
 あれ?一体何が言いたかったんだっけな?ああそうそう、つまり好むと好まざるとにかかわらずこの世は多様性に満ちていていろんな人がいるけれど、昔はいろんな意味で曖昧な部分が今より多くて、そうした多様性にいい加減にと言うかいい塩梅に対応する柔軟性や寛容性、気持ちのゆとりのようなものがもっとあったような気がするのだ。今は一つ一つをキッチリと切り分けていくからとてもスッキリする反面、ギスギスしたり微妙な隙間が空いたりしてはいないだろうか?要は、現代にフーテンの寅さんが存在する余地はあるかというようなことなのだけれど(余計分からないか?)、時代や社会だけでなく、歳をとるにつれて身体と共に固くなっていく自分の思考への自戒も込めて、思いつくまま書き留めてみた次第。 

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