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(別の)Kのこと

 先日、久しぶりに真鶴の駅に降り立った時、そう言えば昔Kと真鶴に来たことがあったなと思い出した。確か、夏に帰省したKが真鶴に別荘があるから遊びに行こうと言い出したのだ(後から聞いたらおばあちゃんちだった)。無人の家の雨戸を開けて、目の前の木立を下っていくと小さな入り江があった。砂浜ではなく波に洗われた小石の浜で、さながら和風のプライベートビーチの感。Kと私は小さな木製の舟を浮かべて素潜りを愉しんだ。それなりに波があって、海なし県で育った私は足の着かない海がちょっと怖かったが、水中めがねで覗くと色鮮やかな熱帯魚が泳いでいた。夢中で潜り続けて、ようやく舟に手を掛けて空を仰ぐと「太陽がいっぱい」だった。
 Kとは高校時代に知り合った。元々東京出身だったが、丁度そのころ父親の仕事の関係で同じ高校になった。短髪に黒縁めがね、がっしりとした体つきの割に笑顔はドラえもんのようだった。私の家は郡部で高校から20km以上離れていたが、ある日(多分半ドンの土曜日)家の近くでふらふらと自転車を漕ぐKに遭遇した。どうしたんだと訊くと、多分私の家がこの辺りだと思ってとの返事。突然の訪問に驚きながらとりあえず自宅に案内すると、田舎の家が珍しかったのか、Kは縁側を開け放した座敷の畳の上でしばらく大の字になって昼寝をして帰っていった。それ以来距離の縮まった私たちは、よく校庭の端の土手で弁当を食べたりして高校生活を送った。
 私より先に北海道の大学に入ったKだったが、卒業は浪人した私より後だった。個人的(だがある意味普遍的)な課題をクリアするのに時間がかかったらしい。東京に帰省する時は、地酒の一升瓶と帆立の干しひもを持って私のアパートに現れ、私たちは徹夜で酒盛りをした。北海道を旅した時は、もう地下鉄代もない状態で、明け方のすすき野のドーナツ屋でKにピックアップしてもらった。私が東京を離れる際、深夜の神田明神前の階段で「もう辞めるなよ」と心配してくれたのもKだ。
 卒業後、化学系の会社に入社したKは30代で上海に単身赴任となり、暫くの間毎年クリスマスになると上海からカードが届いた。そう言えば、日本にいる頃からKは年賀状ではなくクリスマスカードだったな。家がそういう習慣だったのかもしれない。10年ほど前、ようやく日本に戻ったKが一度遊びに来てくれたことがある。会うのは30年ぶりくらいだったので、駅の改札で待ちながら見て分かるか覚束なかった。到着客の最後に現れたKは、一目で分かったけれどスッキリと痩せて落ち着いた顔立ちになっていた。その顔を見て、Kが過ごしてきた時間を想った。Kの目に私はどう映っただろう?
 


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