レストランにて
10年以上前に訪れた町でたまたま入ったレストランがある。西側に拓けた坂の途中にあるこじんまりとしたお店で、案内された客室には午後の陽ざしが溢れていた。突き当りの壁に明るい緑を基調としたリトグラフが掛けてあって、一瞬シャガールかと思ったら、ジャンセンと読めるサインがあった。ジャン・ジャンセンを知った日だった。
先日、久しぶりにその町を訪ねる機会があって、そのお店のことを思い出した。念のため予約の電話をすると、カウンター席になるがよいかとのこと。問題ない旨を伝えたが、団体の予約でも入っているのだろうか?ジャンセンは見れないかもと思った。
駐車場に着いた時、お店から裕福そうなご婦人が二人出てきて、停めてあった高級車に乗り込んでいった。入れ違いに入った店内は静かで、以前来た時とレイアウトも雰囲気もちょっと変わったようだ。カウンターは直ぐに分かったけれど、テーブル席にお客の姿はなく、ジャンセンが掛かっていた部屋は入口の扉が閉まっていた。
カウンターの奥側に食べ歩きをしていそうな男性客が一人、中央に私たちの予約席、手前にさっきすれ違った二人のものと思われる席があったけれど、サラダとナフキンが残されていて、厨房にいた年配のシェフが私たちに気付くのに少し時間がかかった。どうやら一人ですべてを賄っているため、営業をカウンターだけに限定しているらしい。
当然一つ一つの作業に時間がかかるけれど、急ぐ旅でもない私たちはかえってゆったりできた。男性に肉料理を出したあと、シェフが作ったのは二人分のスパゲティで、頼んでないけどなあと思ったその二皿は無人のカウンターに置かれた。食事をしている間、少しずつ冷めていくそのスパゲティがずっと気になっていた。というのも、端の席の正面には厨房との出入り口があって、厨房の楽屋裏が丸見えだった。予約席のせいで端に追いやられたご婦人たちは、スローな展開もあって途中で食事を投げ出してしまったのではないか?食べるお客のいないスパゲティを、シェフは料理人の矜持でテーブルに置いたのでは?という気がしたからだ。
ところが数分後、懸念は唐突に解消された。「ごめんなさい、遅くなっちゃった!」戻ってきた二人は、何事もなかったかのように冷めたスパゲティを食べ始めた。タバスコをお願いする口調からすると常連なのかもしれない。ジャンセンに会えなかったのは残念だったけれど、スパゲティが無駄にならなくてよかった。出がけにドアの脇をみると「本日はカウンターのみの営業になります」というサインがあったから、毎日一人という訳でもないのかもしれない。だといいなあと願う。次にいつ来るか来ないか分からない客の願いなどどうでもいいけれど、なんだか時の流れを感じるランチになった。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?