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#64 知るということ

 絵のタイトルを見るのが好きだ(勿論、絵そのものも!)。特に英語のタイトルとかで、シンプルなのに「こう言うのか!」みたいな驚きがよくあったりする。なので、自分がTwitterにあげる写真のタイトルもなるべくぴったりした言葉を探す。と言ってもいつも思い付きだけど、写真とタイトルのペアで合わせ技みたいな感覚がある。
 まだ時々ネットで絵を買っていた頃、「砂の上の植物群」という絵を買ったことがある。いろいろな緑が春の「山笑う」みたいに使われた絵で、タイトルも面白いと思った。その後で吉行淳之介を読んでいたら同じ題名の小説があって、絵のタイトルはここから?と思ったら、小説のタイトルはパウル・クレーの絵から来ているらしいことが分かった。結局、私の買った絵のタイトルがどこから来ているのかは分からずじまいだったけれど、一つを知ったことで、それが次々に繋がっていくことの面白さを感じた。
 知るということは単純に楽しい。知ることでスッキリしたりワクワクしたりする。なので、知らない言葉やあれ?っと思ったときにはすぐに調べるようにしている。一方で、ひけらかすために知識を詰め込むのは時間がもったいない。何となれば、いくら知識を詰め込んでも最早ネットやAIにはかなわないからだ。そうした道具を上手く使いながら、知識と知識を有機的に組み合わせて新しい考え方やアイデアを生み出すことに価値がある。そのためには基礎的な知識の蓄積は必須で、個人に構築された膨大な知がその人と共に亡くなってしまうのはいつも哀しいことだ。
 孔子は「明日に道を聞かば夕べに死すとも可なり」と言ったとか。そのことさえ分かれば死んでもいいという程のことが自分にはあるだろうか?確か「バカの壁」に、もし自分があと1日しか生きられないと知ったら、目の前の景色も知る前と全く違ってみえるだろうみたいなことが書いてあったような気がする。場合によって、知るということにはそれ位インパクトがあるということなのだろう。差し当たってそれ程切実に知りたいことはないけれど、この先も生きていれば「そうだったのか!」と分かることも少しはあるかもしれない。死んだらどうなるのか?というのはちょっと気になるけれど、いつかは誰にでも分かることなので、もう少し先の楽しみに取っておきたい(今日かもという意識はいつも頭の片隅に置きながら…)。

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