
行ってみないと
関東の外れで育ったので、利根川が坂東太郎と呼ばれることは知っていた。仕事で徳島に行ったとき、吉野川が四国三郎と呼ばれることを知った。はて、次郎は何処に?と思ったら九州にいらっしゃった、筑後川の筑紫次郎。江の川も中国太郎と呼ばれるそうで、大体世の三大○○は4つ以上あると相場が決まっているようだ。若い頃福島に行ったら、時刻と太陽の位置からしてどう見ても川の水が南から北に向かって流れている。川は北から南に流れるものと思っていた私は大いに驚いたが、福島では実家とは逆に南を上(カミ)、北を下(シモ)と呼ぶことを後に知った。行ってみないと分からないものだ。
東北に奥州三関(サンカン)というのがある。数年前に高校野球の優勝旗がようやく越えた白河の関、山形県鶴岡市にある念珠ヶ関、もう一つが福島県いわき市にあったとされる勿来関(ナコソノセキ)だ。古代から歌枕になっていた関で、その公園に行ってみると様々な歌碑が並んでいる。何気なく読んでいたら、ある瞬間に難解な地名の意味が稲妻のように閃いた。「な~そ」、昔古文で習った禁止、ナコソは「来るな」の意味だ。関東と奥州の境から北の蝦夷に向かって呼びかけた場所なのだろうか?行ってみないと分からない…。
境と言えば、司馬遼太郎の「街道をゆく」シリーズ会津編の冒頭に「境の明神」という場所が出てくる。奥州街道が関東から奥州に入るちょっとしたピークの関東側と奥州側のそれぞれに神社があり、関東側に男神が奥州側に女神が祀られている。かつて芭蕉がみちのくへの第一歩を記した場所で、日の当たる緩やかな坂を上り切ると、そこからは木陰の下りとなって、その対比がいかにも別の世界への入口を感じさせる。
その道を数キロ北に進むと、街道が城下町特有のL字カーブに突き当たる正面に稲荷山という小高い丘がある。戊辰戦争の激戦地だった場所で、その丘に立つと向かいの山に陣取った新政府軍が放つ大砲の玉が飛んで来るのが見えるような距離感だ。丘の麓には会津藩士の墓と道を挟んだ向かい側に長州藩・大垣藩士の墓があって、現在では中腹に両軍すべての犠牲者の名を刻んだ立派な碑が建てられている。その碑が出来るまでに150年かかっていることを考えると、今現在戦っている国や地域が和解出来るまでに(先ず戦いが終わることが先決だが)、これから一体どれだけの時間が流れればいいのだろう?