探検隊で男鹿
先週末、秋田の男鹿半島を巡ってきた。震災の折、秋田と山形の友人がお見舞いに来てくれたのがきっかけとなって、その後青森の友人も加わって、持ち回りで年に1,2度それぞれの地元を案内するツアーを続けている。始めた当時は中年探検隊と称していたが、いつの間にか初老探検隊になってしまった。今回案内してくれた秋田の友人は、一度リタイアした後、今年乞われて地元施設の責任者になったのだが、旅行の間ずっとスマホで仕事の連絡を取っていたなあ。昨年入院をしているので、健康第一でお願いしたいものだ。
何の予備知識もなく訪れた男鹿半島は新鮮だった。この時期にしては珍しい程暖かく、快晴の寒風山から眺める日本海と八郎潟に向かって、青いパラグライダーが気持ちよさそうに浮かんでいた。曲家の薄暗い座敷で繰り広げられるなまはげの実演は迫力満点で、「泣ぐ子はいねがー」だけでなく、座って接待を受けながら一年の確認をするのを初めて知った。男鹿半島突端の入道崎は、白黒に塗り分けられた灯台の足元に天然芝の草原が広がり、安山岩で造られた北緯40度のモニュメントの前に立つと、広い空と海がその先でどこかと繋がっていることが予感できた。
美味しい料理と海の見える温泉を楽しんだ翌朝、水族館に行く前に友人が案内してくれたのは加茂青砂の海岸。1983年に起きた日本海中部地震で、遠足に来ていた小学生13人が津波の犠牲となった場所だ。既に廃校となった小学校の前に慰霊碑があって、それがきれいに手入れされていることに一層新たな哀しみを覚えた。国の文化財に登録されている校舎は少し高台に建っていて、たくさんの子供たちで賑やかだった頃を懐かしむように静かに慰霊碑と海を見下ろしていた。
最後に訪れた八郎潟は雨だったが、真っ直ぐに伸びる道沿いに黄葉した並木が濡れて美しかった。博物館で干拓の歴史を眺めると、大潟村の歴史がほぼ自分の生い立ちと重なることに気付いたが、その割に干拓される前の八郎潟のことも、事業がオランダへの戦後賠償的な意味合いを持っていたことも知らなかった。そう言えばまだ小さかった頃、稲作農家だった父が男鹿半島に行ってきたことがあった。農家には出張とかは無いので珍しくて覚えていたのだが、今思えばきっと当時話題だった大規模農業の視察だったのだろう。ひょっとしたらその後温泉に泊まって、翌日には観光もしたかもしれない。父もなまはげを見ただろうか?