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小説詩集4「兄弟じまん」
教室と廊下の間にある小さな談話スペースで、テキストを広げて英語を勉強してたら、
「TOEICでも受けるの?」
と通りかかった友人がきいてきた。
「うん、テキストだけは買ってきた。でも受けないよ」
って私はきっぱりと言った。
「いつかは受けるんでしょ」と友人。
しなやかな髪が頬にシャープに沿っていていいなって思いながら私は彼女に首をふる。
「弟がいてさ」
と言って、仕方ないすこし長い話になるが教えてあげようと、私はテキストを閉じた。
友人は頬の髪を耳に掛けてすぐにまたはずした。
私には、私たち家族にはもったいないぐらい優秀な弟がいる。
その弟の中学受験のために願掛けに出かけたことがあった。
とてもご利益ある神さまだった。その証拠に参拝者もすごかったし、絵馬は鈴なりだった。
それで、家族のみんなで柏手打って拝んだ後におみくじをひいたのだけれど、
「お姉ちゃん先にひきなよ」
って優しい弟が言ってくれた。
けれど、そこは我が家の希望の星だもの、もちろん私は先をゆずった。
弟が「中吉だな」って言うと両親は「中吉だったら大丈夫、よかったね」って言ってあげてた。
実は私その時、弟の後におみくじをひいていたのだけれど、それを開いて青くなっていた。
『あなたはどんな試験でも合格します』
って書いてあったのだ。
あ、やってしまった、と思ってそそくさとおみくじをバックに入れた。
家族はそんな様子を見て、「あまりよくなかったら、枝に結びなさい」なんて言ってくれたけれど「そうね」ってにごした。
私の心に不安はよぎったけれど、口には出さなかった。
だって、ただのおみくじだもの。
春になって桜が咲くころ結果発表の日がやってきた。
母と弟が肩を落としてかえって来たのを見た時、予知していたことが現実になったのを見たような気がした。
あのおみくじのせいなんだ。
三年後、優秀な弟は高校受験でリベンジを試みた。ダメだった。
その間私はどうだったかって?
英検準二級は軽々と受かった。二級に至っては、問題と解答用紙が一問ずつずれていたにも関わらず、いやそれがかえって幸いしたのか高得点合格をしてしまった。
大学受験もワンランク上にスルリと滑り込んだ。
英検準一級も一級も受けたけれど、単語知識が圧倒的に足りてなくてまさにチンプンカンプンだった。
だのに合格した。
もう私はやけになって、去年司法試験を受けてみた。
「あらだって、私たち経済学部じゃない」
友人が言う。
「そうよ、だからやけのやんぱちで」
「まさか」
「受かったわ」
本当に悪い魔法にかかったみたいなのだ。一方で優秀な弟が、今年もまた大学受験に失敗してしまったのだから。
「弟はね、優秀なの。天才なのよ。それをどんなふうに証明すればいいの?私があの時順番を譲っていなければ、こんなことにはならなかったのよ。この間違った軌道をもとに戻すには、、、」
「一切の受験絶ちするしかないのね、つまり」
「いっさい、完全にね」
と言いながら、やけにのみ込みがいいなあこの友人と思っていた。
そしたら、彼女、向かいの席に座りこんで、両手を握りしめ拝むようにして私をみつめた。
「私なんか、もっと大変なのよ」
「何が?」
「優秀すぎる兄がいて」
友人は髪を耳に掛けてまたはずした。
「本来ならね、世界を席巻してもおかしくないぐらい神童だったの」
あら、長い話が始まりそう、と私はややのけぞった。彼女は組んだ足を組み替えると話はじめた。
兄さんは本当に神童だった。
世間一般の子供たちがひらがなを覚えるころ、すでに漢字を覚えてた。みんなが漢字を覚えるころには中学英語は終わってた。
自ら進んでそんなに勉強ができるようになったのか、母親が仕向けた結果そうなったのかは不確かだけれど、とにかく、そんな風に神童だった。
だから兄さんは、エリート街道まっしぐらのはずだった。
だのに事件に巻き込まれてしまう。
小学生の頃よ、兄さんのクラスは全員がいつも満点だった。不審に思った先生が調査に乗り出した。そしたら、兄さんがみんなに信号を送ってカンニングさせていたのがわかったの。
校長室に呼び出されて問い詰められた兄さんは「愉快だったから」って答えたの。「それに答案が汚れないのは美しいじゃないですか」って答えたから両親が呼び出されたわ。
中学に入ったころにはもう教科書のすべてが頭に入ってた。
だから、カバンごと橋の欄干から放り投げて流れてゆくのを笑いながら見送ったの。
川下でそれを拾った人が警察に届けて兄さんの捜索が始まった。
それを面白がって兄さんは押し入れの中に隠れて、しばらくの間ゆったりと本をよみふけってたわ。
高校生になると兄さんは先生たちをそそのかしてテスト問題を売るようになっていた。
そのくせ裏では生徒たちにその解答を高値で売りさばいていたの。
もちろんそれも結局発覚してたから両親は大変だったと思うわ。
そんなことの連続なの。
「ちょっとまって、ほとんど犯罪まがいじゃない?」
「それがエリートっていうものなの。賢さが仇になるのね」
だから、だから私はね、いついかなる時も心は落ち着かないの。
またあのエリート街道をまっしぐらのはずの兄さんに何かが起こるのじゃないかしらって。
それで、私朝起きるわね、思わず勢いで目覚ましを右手で取ってアラームを止める、ああ左手でなくちゃいけなかったのに。
それでやり直す。
学校に行ってきますって、玄関を出るとき玄関マットの四隅をまんべんなく踏みつける。
これはただのジンクスよ。
友人に会ったら、必ずこっちからおはよって言う。
これもジンクス。
テストはじめ、って言う先生の声がしたら十五数えるまで決して解答しないの。
これもいつの間にかできてしまったジンクス。
だって兄さんに何かあったら兄さんの人生が美しくなくなるじゃない。
「それは恐怖よ」
って友人。
「たとえるならピアノ線で固定された美術品ね」
「ええ、存在しているだけで、もうそこに不安が付きまとうの。つまり、それ程私の兄さんは優秀なのよ」
彼女は、その間もさりげなく足を組み替え、指を握り替える。髪を耳に掛けはずす。ジンクスかと思う。
「確かに、あなたのお兄さんは相当に優秀なようね。でもどうかしら、ウチの場合、弟の優秀さはもう私の存在そのものを凌駕しているのよ。
弟が合格しない限り家族に私は存在しないし、私の進展はつゆほども望まれていないの。だから、そっと息をひそめているわけで、私今存在しない勉強をしているの」
「でも、あなたは息をひそめていればそれで済むけれど、私は存在する限り、日々作り出されるジンクスをこれでもかと守ってゆくの。
だからあなたが自分のために、自分の時間をつかってそのテキストを勉強しているのがうらやましいじゃない」
「ダメ、お願い、ここにテキストなんかないと思って、だって私はもう試験なんか受けないんですもの」
私は、神さまが『試験』とか『受ける』とかいう言葉を聞いたのではないかと思って辺りを見回した。