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私の平和主義

高校生の頃、後輩が、「こうしたら学校がよくなると思う」と言った。その案は私の経験上の何かに引っかかったので、私は「うまくいかないと思う」と言った。すると、横にいた先輩が、「やってみればいいんじゃない?」と言った。

具体的なことは何一つ覚えていないので、おとぎ話みたいな語り口になってしまった。この時のことについて他に覚えていることと言えば、私は自分をものすごく恥ずかしく感じたのと、先輩がものすごくかっこよく見えたことだ。

この類の恥ずかしい思いは、高校時代を中心にたくさんしてきた気がする。ある出来事について感情的になって発言してから、自分が知らなかったり見落としたりしていた事情に気づいたり。

そんな経験を通して、「私が見てるもの、私に判断できることなんて、物事のほんの一部でしかないんだ」という認識ができるようになって、「とりあえず、どうなるか見てみよう」と考えるようになった。自分の考えとちょっとずれてることでも、「絶対だめ」のラインを超えるまではしばらく観察してみる。その方が、自分の認識を改める機会にもなって、勉強になる。

そんなLet it goの精神、気に入ってるし、学べてよかったなと思っている。だけど、そろそろバージョンアップが必要だな、と感じ始めた。


先日、久々に人とぶつかった。まさに、Let it goができない人に「絶対だめ」を伝える機会だった。
話したところでお互いの意見が大きく変わったりはしなかったけれど、私の「絶対だめ」は分かってくれたようだし、喧嘩みたいにならずに穏便に終わらせることができたし、両者とも現時点の人格でのベストを尽くして話せたのではないかと思う。

しかし、話を終えた時、私は「ああ、一生このままじゃだめなんだな」と感じた。

なんだか、ぶれちゃうのだ。今回その人と話すことになったのは、別の人からその人についての相談を受けたからだ。もちろんそれが一方的な意見であることはわかっていたから、おかしいと思うことも意見を言う前にまず聞きの姿勢で状況を把握しなきゃいけない、とかいうことはわきまえていた。

だけどまだまだ難しかった。人づてに「誰が何した」という話を聞くとき、私は「私には知らない事情があってその行為に至ったんだろうな」と思うことが多い。そして、その行為の真偽や事情は私にとってはLet it goだけど、私の目の前でそのことについて心を痛めたりしている話者の方が気になるので、「誰が悪いのかわかんないけどあなたの悲しみには寄り添うよ」というような態度を取ってしまう。

友達から聞く愚痴ならそれでいい。しかし、対立する2者の話を対等に聞かなきゃいけない立場だと、均衡を保てる器が私にはまだないようだ。どっちにも中途半端に寄り添ってしまって、見苦しい八方美人になってしまう。

今回向き合った人たちは、正直無視だって可能な、海の向こうの人達だ。だけどこれがもし、現在進行形の目的を共有する組織の中での出来事だったら。その問題に対処する責任が私に課されていたら。

現バージョンのLet it goだと、私は「絶対だめ」しか言えないのだ。「ちょっと違う気がする」も言えないし、否定以外のポジティブな決断もできない。声の大きい人たちが作り出す流れに違和感を孕みつつ身を任せ、ギリギリのところで「絶対だめ」と声をあげる。そんな人間が成し遂げられることって、きっとごくわずかだ。


じゃあどうしたらいいんだろう。まだボヤっとしたことしか言えないけど、漠然と「人格育てなきゃ」みたいなことを思っている。

Let it goの精神は持ち続けたい。その上で、「それでもいいけど、これでもいいんじゃない?」が言えるようになりたい。それを腹の中にしまっておくって、正直衝突回避のためであることを否めない。

不確かな意見でも口に出せば、誰かが反応を返してくれる。それを受け入れることで、自分の意見を精製することができる。

自分の意見に対するものじゃなくても、いろんな知識を自分のものにしておけば、独りよがりじゃない意見をもてるようになる。

何か違うことを言われたときにもぐらつかず受け止める平衡感覚とか、他人の意見や知識で意見を精製することで得られる自信とか。そういうのを身につければ、Let it goという私の平和主義も、単なる八方美人からアップデートできるんじゃないかと、不確かに、思っている。

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