
とあるコンサルタントのお話
僕の生まれ育った町は、駅前に大きな商業施設などなく、夜になると人通りも途絶えてしまう、いわゆる“田舎”だった。家から一歩外へ出れば、道の両脇には広大な田畑が広がり、農作業をするトラクターや軽トラックが行き交う姿が当たり前の光景。冬になると、どこからともなく漂ってくる煙の匂いが鼻をくすぐり、近所の人たちは野菜をおすそ分けし合うのが習慣。そういう、素朴で温かみのある世界が僕の原点だった。けれど、僕にはそこがあまりにも小さく見えた。こんな牧歌的な風景に浸って一生を終えるなんて、どこかまぬけだと思ってしまったのだ。
でも、その世界は息苦しくもあった。高い建物はほとんどなく、遠くに見える山の稜線はいつも変わらない。その景色が安定した安心感をもたらす反面、僕には「この町で一生を終えるのだろうか」という漠然とした閉塞感を与えた。高校生になってからは、周りの友人たちが「卒業したら就職して地元に残る」「地元の国公立大に入る」と口にするのを聞いては、やりきれない思いで胸が苦しくなった。せっかく生まれたなら、もっと刺激的な世界を覗いてみたかった。こんな田畑に囲まれたまま朽ちるつもりなんか、到底なかった。
“田舎にこもる”のが嫌だった。もっと大きな世界を見たいし、華やかで刺激的な場所で生きてみたい。あの時の僕にとって、“大きな世界”といえば東京だ。テレビや雑誌で目にする、きらびやかなネオンや高層ビル群。オシャレな人々や、最先端のカルチャー。そこは自分の知らないものばかりで、逆に怖い気もしたけど、胸は高鳴った。田舎者の僕が颯爽と都会で活躍するイメージを描いたとき、地元の連中に対してどこかしら優越感を抱く自分もいた。
ある日テレビで、早稲田大学の応援部が全力で校歌を歌い、スタンドを震わせる映像を見たとき、なぜか心に雷が落ちたような衝撃を受けた。声を枯らして応援する姿。そこに“バンカラ”という単語を重ね合わせる。「これだ、俺が行きたいのはこういうところだ。熱くて泥臭くて、でも誇りがあって……」。以来、“早稲田=バンカラの総本山”という勝手な図式が僕の中に植え付けられることになる。田舎者が東京で、“早稲田”という肩書きを身につけてヒーローのように称えられる——そんな期待を勝手に膨らませていた。
けれど、現実はそこまで甘くはなかった。地方の進学校とはいえ、僕の成績はそこそこ止まりで、現役合格には足りなかった。あえなく失敗を喫し、親と何度も話し合いを重ねた末、東京での浪人生活を選ぶことにした。地元からは応援よりも「そんなに都会へ行ってどうするんだ」という冷ややかな声が多かったが、それでも僕は後戻りできなかった。僕は田舎の人間なんかとは違うんだ、と意地を張りたかったんだと思う。
東京に出てきて驚いたのは、人の多さ、ビルの高さ、そして時間の流れの速さだ。雑踏をかき分けて歩くとき、僕だけがスローになったような感覚に襲われた。浪人生として毎日予備校へ通い、机に向かう。そんな単調な生活ではあったけど、街そのものが持つ“圧”が、僕には新鮮だった。家賃や物価の高さには辟易したが、「ここで頑張れば俺は変われる」と自分に言い聞かせた。地元の友人に「俺は東京で浪人してるんだよ」と自慢したかったのも正直なところ。
浪人生活は苦しかった。友達もほとんどできず、親にお金を出してもらっている手前、アルバイトも最小限に抑え、ひたすら勉強に明け暮れる。ときどき、一緒に受験を目指す仲間と雑談するときだけが憩いだった。「早稲田に入ったら、男気あふれるサークルに入りてぇな」とか「早稲田祭の熱さってすごいらしい」とか、そんな話をしては胸を高ぶらせた。だって、僕の頭の中では、早稲田とは“自由闊達で硬派な学風”の象徴だったから。そこに合格すれば、田舎者のレッテルを吹き飛ばせると思っていた。
一年後、滑り止めに受かった大学はあったけど、やはり本命は早稲田。二次試験の手応えはギリギリ。合格発表の時、合格番号を見つけたときは、思わずガッツポーズをしてしまった。ようやく、僕は“都の西北”と呼ばれるキャンパスへ乗り込むことができる。田舎から一歩抜け出して、バンカラの息づく世界に飛び込むんだと信じて疑わなかった。あの瞬間だけは、自分が特別で優秀な人間になれたような気がした。
しかし、入学式の日にキャンパスへ行った瞬間、僕は軽いカルチャーショックを受けた。想像していたのは、まるで大正や昭和の香りをそのまま残したような、泥臭くて熱い雰囲気。ところが、僕の目の前にいる同級生たちは、やたら洒落たスーツやバッグを持ち歩き、肌も白く、メイクもバッチリ。男性もヘアスタイルにこだわり、一見するとK大かA学院の学生のようだ。周囲の声も「今度のインカレサークル、どことコラボするの?」とか「海外留学の準備してるんだけど」みたいな、スケールが違う話ばかり。これが東京か、と一瞬で圧倒された。
これは僕の知ってる“バンカラ早稲田”じゃないぞ、と戸惑った。もちろん、学生の数が多いのだから、多様性があって当然だ。僕が出会ったのはごく一部かもしれない。けれど、キャンパス全体がどこか洗練されていて、“泥臭さ”を感じる場面が意外に少ないことに、苛立ちにも似た気持ちを覚えた。きっと都会育ちの連中は、こんなふうに華やかな雰囲気を当たり前に感じているんだろう。僕みたいな地方出身者が、同じステージに立っていると本気で信じられなくなる瞬間が何度もあった。
同時に、「これが東京か……」とも思った。シティボーイやシティガールだらけで、僕のように垢抜けない田舎者は浮くんじゃないか。入学式後にグループで記念撮影をしている連中を遠巻きに眺めながら、僕は一人コンビニで買ったおにぎりを頬張った。口の中に広がる米の味と、周囲の華やぎのコントラストがやけに印象に残っている。どうせあのグループ写真に俺は映らないんだな、と歯ぎしりした。
僕はとにかく“バンカラ”なサークルを求め、入学直後のサークル紹介に片っ端から参加した。応援部のブースに行けば、ひたすら規律と厳しい練習が求められ、体育会の香りが強すぎる。学生プロレス研究会は確かに男臭く、笑いも多いが、エンタメ色が強くて、僕のイメージする“真面目なバカ”とは少し違う。演劇サークルや昔ながらの音楽系サークルも覗いてみたが、そこはそれでサブカル的な雰囲気が色濃く、僕の想像するバンカラとは方向性が噛み合わなかった。
結局、この頃の僕は“理想の早稲田”を探すことに固執していたんだと思う。だからこそ、本来なら興味が持てるかもしれないサークルやイベントをすぐに切り捨ててしまった。新歓コンパで出会った同級生たちにも、「あんまりチャラいのは好きじゃない」「もっと熱いことしたい」と斜に構えて答えるばかり。気づけば、2か月ほど経ったところで、友達と呼べるほど親しい相手はほとんどいない状態になっていた。僕は孤立を恐れながらも、“俺はこんな連中と馴れ合わない”というプライドを捨てられなかったんだ。
大学生活って、最初の数カ月が大事だと言われていたのに、それを逃してしまった。その事実に気づいたとき、僕は一種の焦りを覚えた。けれどプライドが邪魔をして、自分から積極的に話しかけたり、誘われた飲み会に参加したりすることをためらってしまう。「俺はこんなキラキラした連中に染まるわけにはいかないんだ」という変な意地があった。結果として孤立の道を歩むことになる。
一方で地元の友人たちとはLINEグループでつながってはいたものの、だんだんやりとりの頻度は減っていった。彼らは地元の国公立大に進んだり、専門学校に行ったり、就職したりと、それぞれの道を歩んでいた。「週末、地元でドライブして遊んだ」「みんなで焼き肉行ってきた」なんて話題がLINEに流れてくると、僕はどこか心がチクチクした。どこか“地方のマイルドヤンキー”ぽさを感じたし、同時に「俺だけが東京に出て、特別な場所にいるんだ」と思いたい自分もいた。彼らがリア充してると想像すると、なんとも言えない敗北感が胸に残るのだ。
東京の大学に入って、しかも早稲田だというだけで、地元では「すごいじゃん」「さすがだね」と言われることもある。でも僕自身は、まだ何も成し遂げていないし、友人もほとんどいない孤独な大学生活を送っている。だけど、地元にいる彼らが心底楽しそうに見えるのも嫌だった。僕は、「地元の視野狭い感じにはついていけない」「やっぱり東京は刺激が多いからさ」と、適当に都会暮らしを自慢する言葉を返すようになっていた。自分だって大して刺激を受けていないくせに。
今思えば、それはただの見栄だった。実際は何も充実していないのに、わざわざ「カフェで勉強しててさ〜」とか「週末は都内のイベントがあってさ〜」と自慢げに話す僕は、冷静に見れば滑稽だったんだろう。だけど、地元で安定して楽しんでいる友人を心の奥底で見下す気持ちが確かにあった。「そいつらは視座が低い」「俺とは違う世界にいる」と決めつけることで、自分の孤独を正当化していたのかもしれない。田舎者同士の中で“飛び抜けた田舎者”を気取る——本当に情けない話だ。
大学2年の後半あたりから、ちらほら「インターンに行く」とか「就活の準備を始める」といった声が周囲で聞こえるようになった。早稲田って、就職支援が特別手厚いわけじゃない。OBやOGが積極的に来てセミナーをしてくれる場面は少ないし、キャリアセンターもあくまでも最低限のサービスを提供しているだけ。ただ、学生同士で強固なネットワークがあって、独自の“就活コミュニティ”が生まれているらしい。早稲田生ならこういう情報をさらっと掴むんだろう、という先入観はあったが、僕はその“早稲田ネットワーク”とやらにも入れなかった。
友人が少ない僕は、その手の情報に疎かった。たまたま授業で一緒になったヤツが、「俺、上位コミュニティでケース面接の勉強やってるんだよね。○○塾って知ってる?」と話してきて、初めてそんな世界があると知った。何でも、外資系コンサルや外銀に行きたい連中が集まって、ハイレベルな選考対策をしているとか。参加するにはテストや面接が必要で、しかも受かったのはほんの一握りらしい。
僕も一瞬、「自分もチャレンジしてみようかな」と思った。だって、いつしか僕は“バンカラ”にさほど興味を持てなくなっていた代わりに、「どうせ東京にいるなら、華やかなビジネスの世界で成功したい」という新しい欲望を抱き始めていたから。田舎者から東京のエリートへ——そんなシンデレラストーリーを夢見ていたのかもしれない。だけど、結果は惨敗。書類選考の段階で落とされ、説明会すら受けられないという屈辱を味わった。あのときほど、自分の無力を突きつけられた瞬間はなかった。
がっくり肩を落としていたとき、別のコミュニティ「ネボラ(NEBOLA)」の話を聞いた。そこは比較的入りやすいらしいと。ネボラの門を叩いてみたら、ESと簡単な面談を経て、どうにか合格。こうして僕は本格的に“コンサル志望”に傾倒していく。かつての“バンカラ愛”はどこへ行ったのか? 今では「外資系に入って、高収入を得て、地方の連中と決定的な差をつけてやりたい」という思いが前面に出ていた。
大学3年の春から夏にかけて、僕はネボラの勉強会に通い詰めた。そこで配られるケース面接の資料を読み込み、グループディスカッションの練習を繰り返す。周りには「将来は外銀で投資銀行部門に入りたい」とか「トップクラスの戦略コンサルで成長したい」なんていう意欲満々の学生が多い。僕はそれらの熱気に巻き込まれるようにして、「俺だって早稲田にいるんだ。いけるはずだ」と自分に言い聞かせ、ケース問題を必死に解いた。田舎から来た分、地頭の良さで勝負するしかない——そんな気負いが常にあった。
いつのまにか、“バンカラ”の二文字は僕の頭から消え失せていた。代わりに「企業戦略」「ロジカルシンキング」「グローバル」「高い視座」といった言葉が僕の中で回転する。田舎がどうこうよりも、まずは東京で勝ち抜くことが大事。これが今の僕のモットーだ。もっとも、その裏には「大学生活が空回りして孤独だった分、就職で一気に逆転したい」という気持ちもあったのだと思う。就活で成功して、「ほら、俺が地方を捨てたのは正解だったんだ」と証明したかったのだ。
それだけじゃない。SNSでは、“東京の就活生”を強調する投稿を増やした。「今日は丸の内で外資系セミナー」「都内の某ホテルでケーススタディに参加」などと書き、写真を載せる。地元の友人が見て、「すげー、都会だな」って思ってくれたらいいなと下心もあった。地方との比較で優越感を得る。そんな小さいプライドが、僕の行動原理になり始めていた。「俺がこんなにがんばってるんだから、お前らには理解できないよな?」という暗黙の見下しが文面ににじんでいたのかもしれない。
そうして満を持して臨んだ就活本番。しかし、世の中はそう甘くない。まず挑んだのはMBBと呼ばれる世界的な3社。おなじみの高倍率ファームたちだ。ネボラで対策をしたおかげで一次面接くらいは通過した会社もあったけど、二次面接、インターン、最終面接あたりで競合する超優秀な学生たちに圧倒されてしまった。英語力や留学経験、MBA顔負けの分析スキル——僕には足りないものが多すぎた。
戦略系の国内大手ファームにも応募したが、ケース面接で論点をうまくまとめきれずに落ち、「残念ながら今回は見送らせていただきます」という定型文のメールを何通も受け取った。ネボラで知り合った仲間が「私は○○から内定もらったよ!」と嬉しそうに報告している横で、僕はうまく笑えなくなる。「早稲田っていう看板があれば、もう少しどうにかなると思ってたのに……」という甘い考えを突き付けられた。悔しさで眠れない夜もあった。
Big4系のファームにも挑んだけれど、やはり途中で落ちた。面接官が無表情でメモを取りながら、「ところで、あなたは大学時代にどんなリーダーシップを発揮しましたか?」と聞いてきたとき、自分が答えられるエピソードがほとんどなかった。サークルも中途半端、バイトも最低限。そこで必死に「学部での研究に打ち込み……」とか「浪人時代の努力……」なんて話しても、インパクトに欠ける。そりゃあ落ちるよな、と後から思えば納得できるけど、そのときはショックで泣きそうになった。
そんな苦しい日々の中で、唯一「最終面接通過」の連絡をくれたのが「デトロイト トーマス フィナンシェ アドバイザリー」、通称DTFAの会社だった。正直、当初は名前すらよく知らなかった。あの大手グループの一員で、ファイナンシャルアドバイザリーや再生、M&A関連を扱っている、という説明を受けたときは「おお、なんかすごそうじゃん」と思った。
面接を重ねるうちに「うちは戦略コンサルってわけでもないけど、色々幅広くカバーしている」という話を聞いて、「とにかくここだけは受かりたい!」と必死になった。結果、最終面接では担当者と相性がよかったのか、これまで散々落ちてきたケース質問もそこそこ上手く切り抜け、「うちで働いてみませんか」と言ってもらえた。想像以上の安堵感を覚えた。
ネボラの仲間には、もっと名の通った戦略ファームや外資金融から内定をもらった者も多く、「DTFA? まあ大手グループだし悪くはないよね」みたいな反応をされることがあった。悔しさもあったが、背に腹はかえられない。僕は何度も面接で落ちてきた現実を受け止めるしかないし、ようやく手にした内定を誇りに思いたかった。こうして、大学4年の初夏には就職先が決まり、僕の鬱屈した就活は一応のゴールを迎えた。
内定を得た途端、僕は急に肩の力が抜け、SNSに就活の振り返りや東京暮らしのことを投稿する機会が増えた。そこには少なからず“地方に対する優越感”が混ざっていたと思う。生まれ育った町が嫌いだったわけじゃない。でも、「視座の低い田舎のまま一生を終わりたくない」という気持ちが強かったから、いつしか僕は“地方を切り捨てる”表現で自分を高めようとし始めた。
たとえば「都会は刺激が多く、成長の機会にあふれてる」「地方はマイルドヤンキー気質で狭い世界しか知らないから、僕とは話が合わない」。そういう言葉をポンポンとSNSに書く。すると、「都会はいいよね」「羨ましい」と言ってくれる人もいれば、「お前、田舎出身なのに何偉そうに」と批判する人も出てきた。中には地元の友人がグループチャットで「暁人、なんかめっちゃ俺らを見下してない?」と騒ぎそうになったので、僕は急いで投稿を消したりもした。
そのとき初めて、僕は「自分が地方を見下している」という事実と向き合わざるを得なかったんだと思う。でも、謝りたくはなかった。なぜなら、僕は苦労して早稲田に入り、就活でも苦戦して最後にDTFAを勝ち取った。それらを“都会での成長”と結びつけて、地元にはない価値だと信じ込みたかったから。だから「すまん、酔ってた」と軽くごまかしつつも、心の奥では「田舎にずっと残ってる人たちとは考え方が違うのは当たり前だろ」と正当化していた。
早稲田での4年間(正確には浪人を挟んだから5年)は、気がつけば終わりに近づいていた。サークルに本格的に所属することもなく、友人との思い出といえば数回の飲み会くらい。ゼミは一応入っていたけど、そこでも大きな研究成果を残したわけでもない。周りが卒論や卒研で忙しくしているなか、僕は「単位も揃ったし、内定もあるし、あとは卒業を待つだけ」という状態だった。
キャンパスを歩いていると、よく見かけるのは仲のいいグループが笑顔で写真を撮っている姿。卒業旅行の計画を立てている様子。海外に飛び立つ準備をしている友人。いずれも僕には無縁だった。かつては“バンカラ”を求めてきたくせに、その精神が全然身に付いたわけでもなく、結局“キラキラ早稲田”にも溶け込めず……。僕は中途半端なまま卒業の日を迎えることになるのだろう、と寂しさを覚えた。
だけど、心の中では「就活で一応コンサルに行けることになったし、きっと社会人になれば華やかな世界が待っているはず」と期待もしていた。バンカラを捨てた代わりに、外資系っぽいエリート感を手にしたはずなんだから、と。そうでも思わないと、大学生活が空虚だった事実が浮き彫りになってしまう気がした。
4月、いよいよDTFAに入社。入社式では、同じ同期が30人ほど集められた。ざっと見渡しただけで、僕よりよほど優秀そうな人材が多かった。海外大出身、理系院生、起業経験者、他にも難関大を首席クラスで卒業したという化け物みたいな同期もいる。「早稲田だぜ、俺?」と自慢したい気持ちも、なんとなく言い出せなかった。
研修のあと、僕が最初に配属されたのは大手お菓子メーカーのシステム刷新プロジェクト。かなり大規模な案件らしく、本来なら開発ベンダーと協業しつつ経営面でもアドバイスを行うという話。しかし、入社して間もなく現場がトラブルに陥り、システム障害で商品が出荷できないという緊急事態に追われているらしい。
「コンサルってもっとクライアントの経営戦略に踏み込むんじゃないの?」と頭の片隅で思いながらも、新人に与えられたミッションはごく単純な作業だった。倉庫に出向いて在庫数を確認し、エクセルに打ち込む。工場で働いている人々にヒアリングし、どこでトラブルが起きているか情報をまとめる。僕が想像していた“カッコいいコンサルタント”の仕事とはかけ離れていた。
とりわけ多かったのが、プッツンプリンの在庫トラブルだ。聞けば、このお菓子メーカーの主力商品らしいが、システム更新のミスで出荷や在庫管理が滞っているとのこと。僕はプロジェクトリーダーから「新人はまず現場を知ることだ」と言われ、全国各地の倉庫や小売店に出向き、「プッツンプリンが何個在庫に残ってるか」を実地でカウントする生活を強いられた。
大都会でエリート生活——そんな幻想が音を立てて崩れた。夜通し働いてタクシーで移動するわけでもなく、そもそも地方の流通センターやスーパーを巡る日々で、体はどんどん疲弊していく。移動の車中、窓の外にはかつて僕が見慣れていた田畑や山の風景が広がっていた。あまりに皮肉な巡り合わせだった。
「こんなのコンサルじゃない。単なる棚卸しだろ?」と苛立つ一方で、地元を見下していた自分が、まさに“地味な現場”に足を突っ込んでいるという事実に、変な羞恥心を覚えた。「早稲田卒」の肩書きを見せびらかしても、倉庫で働くおじさんたちには関係ない。「データはいつまとまるんだ?」と急かされては、ひたすら在庫数をパソコンに打ち込むだけ。夜にはホテルに戻り、疲れを取る間もなく次の日の出発に備えた。あまりに地道で、華やかさの欠片もない。
プロジェクトが一段落したタイミングで、同期たちと情報共有会が開かれた。他の案件に配属された面々は、海外クライアントとミーティングしたり、M&Aのデューデリジェンスに関わったりと、確かにエキサイティングな仕事をしているように見えた。僕が「棚卸しばっかりやってるんだよね」と漏らすと、「まあ、そういう案件もあるんだな」と苦笑された。
中には「あ、俺は海外の投資家とやり取りする機会があってさ」と自慢げに話すヤツもいて、正直、嫉妬で胸が苦しくなった。悔しくて仕方ない。その夜、僕はSNSを開いて、またしても「やっぱり地方にはわからないだろうな、都会のハイレベルな仕事は」と呟きそうになった。いや、僕がやってるのはハイレベルでも何でもないのに。それでも“地方dis”をしたくなる衝動が湧いてくる。その理由は今思うと、自分自身への苛立ちを他人にぶつけるためだったんだろう。
結局、その夜は投稿を思いとどまったものの、自分の中に渦巻く「俺はこんな泥臭い仕事をするために早稲田へ来たんじゃない」という思いを抑えきれなかった。いつしかまた「視座が低いマイルドヤンキーの連中を見下す投稿をすれば、俺はまだ都会で戦ってるんだと言い聞かせられるんじゃないか」という誘惑に駆られるようになった。
入社して1カ月ちょっと経った頃、地元の同級生から「ゴールデンウィーク、帰ってこいよ。みんなで同窓会やるから」と連絡が来た。正直、僕はあまり気乗りしなかった。地元disをやりすぎて、微妙に空気が悪くなっているのを自覚していたから。でも「全然帰ってこないし、たまには顔出せ」「東京で偉そうになってんだろ」と茶化すようなメッセージに、逆に対抗心が燃えてしまい、参加を決めた。
同窓会の席で、昔から明るくて人気者だった同級生が、地元企業で働きながら結婚してもう子どもがいると聞いた。別のヤツは「実家の農業を継いで新しいブランド野菜を開発中なんだ」と誇らしげに話している。聞いていると案外みんな“視座が低い”どころか、自分なりの生き方を見つけていて、きらきらした表情をしているじゃないか。
だけど、複雑だった。心のどこかで「こんな田舎で結婚して子育てなんて、マイルドヤンキーの典型だろ」と見下す自分もいれば、「なんかリア充してるな……」と羨む自分もいた。アルコールが進むうちに、つい口が滑ってしまう。「東京で仕事してるとさ、地方の視座ってホント低く見えるんだよね」と言った瞬間、周りがシーンとしたのを感じた。
その夜、酔った勢いでSNSに「やっぱり地方はマイルドヤンキーだらけ。視座の低い人間とは話が合わん」と投稿してしまい、朝になって後悔したときには、既にスクショが拡散していて、「もう暁人は地元とは縁切るつもりなんだろ」みたいに言われていた。完全に炎上だ。気まずさと自己嫌悪で押しつぶされそうになりながら、僕は東京に戻るバスの中で息苦しくなっていた。
東京に戻ると、例のシステム障害案件は相変わらず泥沼の状態だった。連休明けで物流が混雑する中、僕は再び倉庫や工場を駆け回り、プッツンプリンの在庫数を数える日々。正直、まったく華やかじゃない。その上、地元で炎上した件が頭を離れず、実家からは「いい加減にしなさい」と叱る電話がかかってくる。どうにもやるせない。
「俺は東京のエリートで、地方の連中とは違うんだ」と思い込みたかった。だけど、現実の僕は都会っぽいことなど何一つしていない。せいぜい仕事終わりに高めの居酒屋でちょっと贅沢して写真を撮り、SNSに投稿するくらい。でも、それもなんだか虚しい。いいねがつくのは同僚数人と、大学時代のクラスメイト数人だけ。地元の友人はそもそも僕の投稿を見たくないのか、反応がない。
倉庫の棚の間を通り抜けながら、「何のために早稲田に来たんだろう」「何のために東京で働いているんだろう」と自問する夜が増えた。田舎を捨てるほど東京に魅力があると信じていたはずなのに、実際には孤独なまま。バンカラを求めてた頃の純粋な熱さはどこへ行ってしまったんだろう。僕の胸には、抜け殻のような虚無感が広がっているだけだった。
プロジェクトの進捗が遅れ気味で、連日終電かタクシー帰りといった日々が続いてはいたものの、カレンダーをにらむと、時たまぽっかりとオフができるタイミングがあった。大抵は平日の火曜や水曜など、周囲が通常出勤しているタイミングだ。僕はその貴重な“穴”を見つけると、何かに憑かれたように都心へ足を運ぶことにしていた。
「せめて高めの給料で東京を満喫しよう」——そう自分に言い聞かせるのは、コンサルの新人として味わう泥臭い業務とのバランスを取るためだったと思う。普段はプッツンプリンを倉庫で数えているが、オフの日くらい“都会のエリート”らしい生活をしてみたい。そんな矛盾した願望が、僕を見栄っ張りな行動に駆り立てた。
たとえば、普段なら絶対に行かないような、高級ホテルのラウンジを物色する。ネットで「都内 ラグジュアリーホテル バー」などと検索し、インスタ映えしそうな店を探すのだ。もちろん、値段は安くない。カクテル一杯で数千円、高級ウイスキーならさらに上。けれど、ここで妥協したら“地方でもやってそうな飲み会”と変わらない気がした。
あえてブランドスーツに身を包み、ネクタイもいつもよりワンランク上のものを身につける。新人の身分で分不相応だけど、少しだけ高級な腕時計を買い足した日もあった。「いつか同期や先輩から誘われたビジネス会食で恥をかかないため」と自分に言い訳しながら、結局は“都会の洗練された世界にいる自分”を演出したかったのだと思う。
店内では、落ち着いた照明と静かなBGMの中で、スツールに腰かける。バーテンダーが上品な所作でボトルを並べ、「こちらのウイスキーなどいかがですか?」と薦めてくる。値段を見れば、コンビニ弁当を何日分も買えそうな金額だ。それでも「お願いします」と答えてしまう。そんなとき、心の中には一種の高揚感と「こんなの見栄じゃないか」という冷めた声が同居していた。
グラスを傾けると、芳醇な香りと強いアルコールが鼻を抜ける。苦さとも甘さとも言えない複雑な味をゆっくり味わいながら、僕はスマホを取り出す。SNSのカメラを起動して、照明が映える角度を探す。バーのカウンターやボトルがずらりと並ぶ背景をぼかして、ウイスキーグラスを手前に配置し、いかにも“ハイセンスな東京の夜”を切り取るように写真を撮る。
キャプションをどうするか迷った末、結局はこんな風に書く。「忙しいプロジェクトの合間に、六本木で自分へのご褒美。やっぱり東京は刺激が多くて飽きませんね」。投稿ボタンを押すと、すぐに数人の“いいね”がつくこともあれば、しばらく誰も反応しないこともある。いずれにせよ、地元の友人たちはほぼ既読スルー状態で、あるいはもう僕のアカウントをブロックしているのかもしれない。
昔なら「おしゃれだね」「東京に染まってるなあ」みたいなコメントが来ていたかもしれない。でも今はそれも皆無。そもそも炎上騒ぎで険悪になった人が多いし、見たとしても「あいつ、まだ都会ぶってんな」と呆れているのかもしれない。いいね数が伸びない投稿を眺めていると、急に腹立たしくなる。「せっかく高い金を払って洒落た店に来てるのに、誰にも認めてもらえない」——そんな安っぽい承認欲求が湧き出してくるのだ。
すると、グラスを持つ手がいつのまにか震える。「やっぱり地方の連中には、この価値観がわからないんだよな」と、心の中で勝手に彼らを見下す言葉を反芻する。しかし、そもそも誰かにわかってほしいという思いがある時点で、“本当に都会に馴染めている”わけでもない。僕は東京でキラキラした生活を演じながら、実は誰にも届いていない叫び声を上げている。そんな感覚が、胸の奥でちくちく痛んだ。
やがて酒が進んでくると、バカバカしくなる瞬間が訪れる。写真を投稿してもいいねは増えないし、みんなは残業や別の予定で忙しい時間帯だ。六本木のバーのカウンターで、隣の席ではスーツ姿のビジネスマンが軽快に同僚と会話している。「今度の海外案件は」なんて言葉を交わすのを耳にして、僕は思う。「俺がやってることは、ただのプッツンプリンの在庫管理じゃないか」。
もう一口、ウイスキーを流し込みながら、「マイルドヤンキーは嫌いだ」「地方は嫌いだ」と自分に言い聞かせてみる。僕は地方を捨てて東京へ来た人間。早稲田に入り、就活でDTFAに潜り込んだ。都会で働くエリートだ。——でも、その言葉を繰り返すたび、現実との落差を自覚するだけだった。あの倉庫での泥臭い作業、地方支店を飛び回って在庫数を調べる日々……。どこがエリートなんだ? そもそも、地元を捨ててきた割に、地元をdisり続けることでしか自分を保てないという矛盾。
不思議なもので、バーの暗いカウンターに映る自分の顔を見つめていると、急に全身が冷えていくような感覚に襲われる。「結局、自分は地方にも東京にも居場所を見つけられない中途半端な存在なんじゃないか」。その疑念が頭を擡げると、もう止まらない。胸が苦しくて、グラスを置く手が震える。僕はいつから、こんな風に歪んだ自己顕示欲に囚われてしまったんだろう?
田舎を見下すことで都会人を気取る。でも、都会のど真ん中に来ても、誰からも評価されるわけじゃない。むしろ、同期たちが着実に成果を上げている裏で、僕は「雑務新人」のまま。だから余計に背伸びして“東京のキラキラ”を演じたくなる——見栄のスパイラル。これを断ち切る方法が見つからない。
結局、その夜もバーを出る頃にはいい感じに酔いが回っていて、フラフラしながらスマホに目を落とした。SNSで誰かが自分の投稿にコメントしていないか確認するが、通知はゼロ。「……もう、いいや」。そう呟いてタクシーを拾おうとするけれど、深夜料金の高さに躊躇する自分もいる。なんだ、結局金銭的な余裕なんてたかが知れているじゃないか。
仕方なく地下鉄が動いている駅を探して歩きながら、浅い眠りに落ちていくサラリーマンたちを横目に見る。みんなそれぞれ大変な思いをして東京で生きているんだろう。それなのに、僕は「地方と違う世界で頑張ってる自分」をアピールしたいがために、こんな夜更けまで一人のバー巡りを続けている。虚しさがこみ上げて、思わず笑いそうになる。
駅へ向かう途中、ふと道路脇のガラスに映った自分の姿を見つめる。そこにはスーツのジャケットにシワが寄って、ネクタイがやや乱れた男が一人立っている。目は充血気味で、どこか疲れているように見える。こんなの、田舎でバーベキューを楽しんでいる連中よりよほど情けないじゃないか。いつから俺はこうなったんだろう……。
駅の改札をくぐり、電車に揺られながら、また明日からの倉庫仕事が頭をよぎる。「プッツンプリンの在庫がいくつ」「システムでエラーが出たので原因を調べてほしい」——そんな雑務を想像すると憂鬱になる。せめて今日のバー巡りが報われてくれたらと思ったが、SNSの“いいね”は相変わらず伸びないまま。“見栄を張るだけの自己顕示欲”に自分でも気づいているのに、やめられない自分がいる。
電車の窓に映る自分の顔を見て、小さく息を吐く。結局、僕は地方を捨てながらも、東京の誰からも認められていない。そんな中途半端な存在——その事実を誤魔化すために、高いお金を払ってバーやレストランに行き、SNSで都会的な夜を投稿し続けている。その投稿さえ誰にも見向きもされなくなりつつある。まるで、だれも聞いちゃいない独り言を、SNSの海に向かって叫んでいるだけみたいだ。
「帰りたくても帰れないし、ここにいても居場所がないし……。どうすりゃいいんだよ」 車内放送が次の駅名を告げる。その瞬間、何かが身体の奥で崩れ落ちるような気配を感じた。けれど、それを直視する勇気はまだない。疲れ果てた頭は、またすぐに「明日のために早く寝なきゃ」と思考を切り替える。結局、答えも出ないまま、僕はギシギシ揺れる電車の中で目を閉じた。すべてが中途半端で、どっちつかずのまま。そんな僕の悲しい“東京キラキラごっこ”は、これからも続いていくのかもしれない。
そんな折、大学時代にお世話になった就活コミュニティ「ネボラ」の同期メンバーから、「みんなで飲み会しよう」と誘いがあった。場所は都内のちょっとおしゃれなバル。仕事帰りのスーツ姿で集合すると、そこには外資系投資銀行に入社したヤツや、名うての戦略ファームに拾われたヤツが勢揃いしていた。
彼らの近況話を聞くと、まさに“世界を相手に戦う”ような話ばかりだ。「今度、ロンドン支社に出張する」「クライアントがグローバル企業でさ、英語漬けだよ」と笑っている。僕が「最近はひたすらプッツンプリンの在庫を数えてた」なんて言えるわけもなく、「まあ、ITトラブルの現場対応で忙しくしてるよ」とごまかした。
しかし、僕の表情を見透かしたのか、誰かが「大変そうだね」と同情するように言った。僕はそれを屈辱的に感じた。こんなはずじゃない。早稲田に入った段階で、もっと華やかな道が開けると思ってたのに……。苛立ちを抱えたまま二次会に突入した僕は、またしても無意識のうちに「いやあ、地方の連中とか、ホント話通じなくてさ」と、場違いな地方disを口走ってしまう。周囲は苦笑するしかない。結局、そこでも“都会の俺”を演じることでしか自分を保てない哀れさが浮き彫りになった。
倉庫仕事に追われるうちに、入社して半年が過ぎた頃、地元から結婚式の招待状が届いた。高校時代にそこそこ仲が良かった友人が地元で挙式をするという。僕が炎上した投稿をして以来、連絡を絶っていたはずだけど、「せっかくだから来てよ」と声をかけてくれたらしい。
最初は断るつもりだった。だって結婚式に出れば、昔の顔ぶれと会うことになるし、「まだ東京で田舎を見下してるのか?」と嫌味を言われるかもしれない。でも、ふと気づいた。「このまま僕は地方をdisり続けて孤独になるのか。それとも、まだ関係を修復するチャンスがあるのか」。自分の中にわずかに残った良心が、参加を促したのかもしれない。
式の当日、地元に久々に降り立つと、あの田畑と山々が視界に広がった。穏やかな風と草の匂いが懐かしい。東京に比べればなんてことのない景色なのに、胸がキュッと締め付けられるのを感じた。僕はまだ、この町を完全に嫌いになれないらしい。そこに気づきたくなかったけれど、気づいてしまった。
結婚式は、こぢんまりとした地元の式場で行われた。新郎新婦は昔から付き合っていたカップルで、式の最中ずっと笑顔が絶えない。招待客も「本当におめでとう」「幸せになれよ」と温かい空気に包まれていた。僕は式の端っこで、小さく拍手を送りながら、どこか居心地が悪かった。
「俺は東京でエリートを目指してるはずなのに、こんな地方のちっぽけな世界に感動していいのか?」と、妙に構えていた。それでも、友人たちが幸せそうに談笑している姿を眺めていると、意地が崩れていくのを感じる。「視座が低い」と決めつけていた彼らが、実は自分の足元をしっかり見据えて生きている。家族を持ち、地元で仕事を根ざし、愛情の中で暮らしている。その姿が眩しいほどまぶしく感じた。
僕は披露宴の途中、トイレに立つふりをして外に出た。爽やかな秋風が吹き、遠くに山のシルエットが浮かぶ。今まで散々、ここを馬鹿にしてきたくせに、胸が苦しくなった。帰りの新幹線では一睡もできなかった。東京に戻ったら、またあのプッツンプリンの在庫管理が待っている。都会的な生活なんてほとんど満喫できていない。なのに、何をもって僕は地方を見下していたんだろう。「早稲田出身だから? コンサルだから? 結局、実力も大してないくせに……」と、心の奥で自問が渦巻いていた。
東京へ戻り、いつものようにオフィスへ出社すると、案件は相変わらずドタバタ続き。プッツンプリン騒動はようやく収束しつつあるが、次の改善プロジェクトが控えているらしく、また雑多な業務に駆り出されそうだった。同期の一部はすでに別の花形案件にアサインされ、キラキラしたスーツ姿でバリバリ働いているらしい。それを横目に見ながら、「俺は、また棚卸しなのか……」とため息を漏らす。
いつしかSNSに地方disを書く気力もなくなっていた。書けば書くほど虚しくなるだけだし、「俺は東京で成功しているんだ」と誇示できるほどの成果は何も出せていない。それでも仕事を辞めるわけにはいかないし、かといって新しい道を探す勇気も湧かない。地元と縁を切ってまで掴みたかった早稲田ブランドやコンサル肩書きに、今のところ見合うだけの喜びは見いだせず、日々はただ過ぎていく。
会社帰り、ふと立ち寄った行きつけのバーのカウンター席で、ウイスキーのグラスを傾ける。周りは仕事終わりのサラリーマンやOLが楽しそうに会話している。その輪に加わるほどの社交性もなく、僕はただスマホを握りしめ、地元の友人たちのSNSをこっそり眺める。そこには結婚式の写真や、子どもと一緒に遊ぶ写真がたくさんアップされていた。どれも満ち足りた笑顔。それを見れば見るほど、胸が痛い。「視座が低いんじゃなくて、僕よりもよほど地に足をつけているんだな……」と気づいてしまう。
「結局、俺は何がしたかったんだろう?」——グラスに映る自分の顔をぼんやり見つめながら、そう呟いても答えは返ってこない。地方を見下すことでしか自分を保てなかった哀れな若者の行き着く先は、果たしてどこなのか。朝になればまた、コンサルタントとしてオフィスに向かうだろう。満員電車に揺られながら、僕は脳裏に浮かぶ数々の矛盾を得意のロジカルシンキングで必死にかき消そうとする。でも、かき消せない。東京の高層ビル群の隙間で、僕は今日も孤立感を抱えながら、ただ立ち尽くす——それが僕の現実なのだ。