(小説)八月の少年(三十六)
(三十六)鳴かない蝉
見上げると星ひとつない暗黒の空に稲光りがひとつ走った。
ん、夜か?確かわたしは夜明けの海にいたはずだったが。ここは何処だろう?辺りを見回したが見覚えのない街だった。家々の灯りは消えぽつりぽつりわずかに街灯だけが灯っていた。
稲妻がまたひとつ妖しく夜空を照らした。雷鳴が静寂を引き裂いた。その時。
ピクッ。
シャツの胸ポケットの中で何かが動いた。
何だろう?
わたしは胸ポケットに指を入れた。指は何かに触れた。
おや、これは。
それは蝉、蝉の抜け殻だった。そうだ確かあのせみしぐれ駅のベンチで見つけた蝉の抜け殻。ところがなぜか指に触れた感触は柔らかかった。まるで生きものに触ったかのように。なぜだ?わたしは恐る恐るその抜け殻のはずのものを胸ポケットから出した。掌に乗せ薄暗い街灯の光を頼りにそれを見た。すると。
それはやはり抜け殻ではなかった!それは蝉の幼虫だった。どういうことだ?あの時確かにわたしはせみしぐれ駅で蝉の抜け殻をこの胸ポケットに入れたはずだった。ところが確かに今蝉の幼虫だ。わたしの錯覚だったのか?しかしまあいい。
わたしは掌に乗った蝉の幼虫を眺めた。弱っているのか幼虫は動かなかった。ずっとわたしの胸ポケットの中でじっとしていたのだから無理もない。それともまさかもう死んでいるのか?わたしは心配になり息を殺して蝉の幼虫を見つめた。
けれど蝉の幼虫は生きていた。いや死んでいるどころではない。何と!じっとしていた幼虫はわたしの掌の上で羽化し始めたのだ。
それは静かな生命の物語だった。
その間わたしは身動きひとつすることなく、直立不動の姿勢で掌を見つめていた。わたしは神聖な思いに包まれていた。
羽化した後蝉はわたしの掌の上でじっとしていた。蝉は不思議そうに自分の抜け殻を見ていた。蝉はそれが何だかわかるのだろうか?ちゃんと覚えているのだろうか?それが自分の抜け殻だと。それとも何も覚えていないのだろうか?しばらくすると蝉はわたしを見上げた。まっすぐに。それは何ときれいな目だろう。宇宙の暗黒さえも包み込むような漆黒の瞳。蝉はじっとわたしを見つめた。この蝉はわたしのことを何と思っているのだろう?今自分がいる場所がわたしの掌、わたしの体の一部だと気付いているだろうか?
「きみはわたしが怖くないのかね?」
わたしは恐る恐る蝉にささやきかけた。蝉はわたしの声に答えるようにわたしを見つめ続けた。まるでわたしを母のように慕うように。わたしはやさしくささやいた。
「さあ、きみは何処へでも遠慮せず飛んでいっていいんだよ。折角生まれて来たのだから」
けれどやっぱり蝉はじっとわたしを見ていた。まあ、いたいだけわたしの掌の上にいればいい。わたしも蝉を見つめ返した。
そういえばこの蝉は鳴かないな。まだ羽化したばかりだからか、それとも?
「きみは鳴かないね」
わたしは掌の上の蝉にささやいた。まさか答えが返って来るとは夢にも思わずに。すると。
ん?
何処からか小さな声が聴こえて来た。わたしの言葉に答えるように。それはそれは小さく震えるような声だった。
「ワタシハ、ナカナイノデス。ワタシハ、ナカナイセミナノデス」
何?
わたしは驚いて周囲を見回した。けれど人影などない。幻聴か?
「誰だ、誰かいるのかね?」
わたしは蝉を驚かせないように掌から顔を遠ざけ叫んだ。するとまた声が。
「ワタシデス」
確かにその声は聴こえた。そしてその声は、なんとわたしの掌の上から!
「まさか」
わたしは掌の上の蝉を見つめた。蝉もまたじっとわたしを見つめている。わたしは息を飲んだ。
「きみかね?」
わたしは蝉に向かって尋ねた。わたしの声も震えていた。
「ハイ」
え。
わたしは呼吸が止まるほど驚いた。しばらくわたしは声が出なかった。蝉はなんだか幸福そうに微笑んでいるように見えた。
「そうか、きみか」
ようやくわたしは口を開いた。
「そうか、きみは鳴かないのか。さびしい時もかなしい時も鳴かないのかね?」
その時雷が鳴った。わたしは空を見上げた。相変わらず星ひとつない暗黒の空だ。雷鳴に続いて今度は稲妻が光った。その光が掌の上の蝉を照らし出した。蝉はわたしにささやいた。
「ワタシニ、ツイテキテクダサイ」
何?
何処へ?けれどわたしは何も尋ねなかった。
「わかったよ。付いてゆけばいいのだね」
蝉はわたしの言葉に頷くと、わたしの掌からゆっくりと飛び上がった。わたしの掌には抜け殻だけが残された。わたしはそれを地面に捨てようとした。すると蝉が言った。
「トッテオイテ、クダサイ」
「何?ああ、わかったよ」
わたしは捨てるのを止め、抜け殻をまたシャツの胸ポケットに入れた。
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