(小説)宇宙ステーション・救世主編(七・三)
(七・三)子犬と少年
夜の帳が下りるのを待って、雪は弁天川へと向かう。コンビニで子犬の食料と共に、透明のビニール傘を一本購入。今は止んでいるとはいえ、夜の空はまた灰色に曇り始めているから、いつまた雨が降り出すか分からない。
弁天川に近付くと、河原には小さな光がふたつ。近付く雪のハイヒールの音に気付いてか光は消え、いつものようにそこには子犬と少年。
「ワン」
鳴き声と共に、雪へと飛び付いて来る子犬。少年はまたいつものように、にこにこ笑っているばかり。
弁天川の河原に今は一面、毒だみの花が咲いている。その白い花から癖のある匂いが漂って来る。
「にいさん」
雪の声がいつになく沈んでいるのに気付いた少年は、不安そうに雪の顔を見詰め返す。
「お姉さん、どうしたの」
少年の問いに、
「御免、何でもない、にいさん」
かぶりを振ると、気を取り直し雪は子犬に食事を与える。少年もしゃがみ込んで雪と一緒に、子犬の食事を見守る。むしゃむしゃと食欲旺盛な子犬。
「ほんま、いつも元気ええな、子犬のにいさんは。雪、羨ましい」
雪はいつものファッション。ミニスカにハイヒール、加えてコートも羽織っているけど、流石にもう正直暑い。雪がコートを脱ぐと、透かさず少年の言葉。
「ぼくが持ってて上げようか」
「ええの、にいさん」
黙って頷く少年に、
「ほな、お言葉に甘えて」
コートを渡す。
「だってぼく、こんなこと位しかして上げられないから、お姉さんの為に」
どきっ、何でそんなこといきなし言うんやろ、不思議に思う雪。
「いい匂いだね。これが、お姉さんの涙の匂いなんだね」
雪のコートを大事そうに抱えながら呟く少年。
「ちゃうよ、にいさん。雪、一度も泣いたことないねん。ほんま、生まれてから一遍もやで」
けれど少年は黙ったまま何も答えない。
食事が終わると、子犬は勢い良く川に飛び込む。気持ち良さそうにすいすいと泳ぎ回っているから、見ていても楽しくてならない。少年と雪は河原に腰を下ろし、肩を並べて子犬の様子に笑い合う。
ところが突然ピカッと灰色の空に電光が走ったかと思うと、続いてゴロゴロゴロッと雷。地響きと共に雨が降り出す。
「きゃーっ」
雪が悲鳴と共に、少年の肩に抱きつく。川の中の子犬も驚いて急いで川から上がると、寒そうにぶるぶるっと全身を震わせ、くんくんと二人のそばに寄って来る。二人は立ち上がり、雪は少年から受け取ったコートを再び羽織る。と同時にビニール傘を広げ、子犬と少年を招き入れる。遠慮する少年に、
「はよ、にいさん。濡れてまうで」
傘に入った少年は、ずぶ濡れの子犬を胸に抱きかかえる。
雨は直ぐに本降り、雨粒がビニールに弾ける音が耳に響く。
「にいさん、もっと雪にぴたっとくっ付かんと。そっちの肩びしょ濡れや」
片方の手で、少年の肩を抱き寄せる雪、体温と息が伝わる程に。しばらくそうして一本のビニール傘の中、子犬と少年と雪、身を寄せ合いじっとしている。
「寒ない、にいさん」
雪の息だけが白く雨の中に消えてゆく。ううん、とかぶりを振る少年。
川岸に咲く毒だみの花も雨に濡れている、白いその花びらがしっとりと夜の雨に。
「にいさん、なあ。また男の人、死んでもた」
少年の背中に当てていた手を、少年の手へと移動しぎゅっと握り締める。少年は黙って雨を見詰めたまま。
「な、にいさん。天国てあると思う」
問い掛ける雪に、驚いたように少年は雪の顔を見詰め返す。
「死んだら天国行くとかよう言うけど、ほんまやろか」
沈黙を守る少年。
「悪いことした人間はあかんやろ。悪いことしといて天国なんぞ虫が良過ぎる、やっぱ地獄やな。なあにいさん、地獄てあると思う」
二人は同じ方角に目をやる、雨に打たれる毒だみの花へ。
「あの花、何や地獄に咲いてる花みたいやな、にいさん」
冷たい雨に濡れる毒だみの花の白さを見詰めながら、泣きそうな顔で少年がかぶりを振る。
「御免、止めた。にいさん、変な話してもて堪忍や」
ところが少年は顔を上げたかと思うと、雪をじっと見詰めながら叫ぶように告げる。
「お姉さん、ぼくと一緒に逃げようよ」
「へ」
その時稲光がピカッと闇夜を照らし、間髪を容れずにゴロゴロゴロッと雷鳴が大地を揺るがす。
「きゃーーっ」
思わず傘を放り出して少年の背に抱き付く雪。どきどき、どきどきっ、ビニールの傘が地に落下して強風にころころと転がってゆく。雪はただじっと雨の滴に打たれながら、子犬を抱いた少年を後ろから抱き締めている。
「吃驚したあ、にいさん。でもあったかいな、にいさんの背中」
雪の白い息が少年の頬にかかる。少年の鼓動を包むように、雪の鼓動が鳴っている。どきどき、どきどきっ、雨の中、このまま抱き締めていたい。ずっとこのまま、少年の肩に縋っていられたら。
「お姉さん、やっぱりぼくと逃げよう」
少年が繰り返す。
あかん、みんなびしょ濡れやない。我に返ったように雪は少年の肩から手をほどく。その手でさっと転がった傘をつかまえると、再び子犬を抱いた少年に傘を差し掛ける。有難う、にいさん。雪はにいさんのその気持ちだけで充分や。心の中でそう呟きながら、雪は少年にこう告げる。
「なに言うてんの、にいさん。生意気や、そんな台詞十年早いで」
「でも」
その時、少年の頬を伝った滴が雨か涙なのか、雪には区別がつかない。
「にいさん、毒だみの花は雨に濡れても、文句ひとつ言わへんの」
微笑む雪。
「お姉さん、ぼくは死ぬ程悲しいんだよ」
少年の目からすーっと涙が零れ落ちる。確かに雨でなく涙が少年の頬を伝い、それは抱き締めていた子犬の鼻にまで到達する。くんくんした後驚いた子犬は顔を上げ、じっと少年の顔を見詰める。
「ウーッ、ワン」
少年を慰めようとする子犬のやさしさが堪らない。
その時灰色の空に、稲光とは異なる一筋の光が見える。
「にいさん、見て、ほら。あれ、宇宙船ちゅう」
すると、
「うん、そうだよ。お姉さんにも宇宙船が見えたんだね」
涙を拭いながら、少年がそれは嬉しそうに笑う。
「にいさん。泣いた烏が、もうわろた」
けれど烏も心の中ではまだ泣いていたのかも知れないと、雪は思う。
「今夜は宇宙船、何処停まりはんの、にいさん。こないな雨の中」
問い掛ける雪に、少年はゆっくりと答える。
「今夜はね、大熊座ステーションだよ」
いつしか少年は目を瞑り、空想の中。子犬も一緒に瞑っているから、遅れないようにと雪も目を瞑り、後を追う。耳には透明なビニール傘に当たる雨粒の音だけが響いている。
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