(小説)宇宙ステーション・救世主編(四・二)
(四・二)夢
眠りの中で、いつものように夢を見る。今朝もまた、雪の過去を辿る夢……始まりはいつも同じ、夜明け前何処とも知れない街に降り頻る雪の景色。その後に絶え間ない雪の白さの中を流れる川が見える。
どきどき、どきどきっ。川のせせらぎの音さえも凍り付く沈黙の中に響いて来るのは、川の鼓動かそれとも、今川の流れにただひとり身を任す赤子、まだ生まれたばかりでありながら捨てられ必死に誰かに助けを求める少女の鼓動なのか。どきどき、どきどきっ、少女は何処までも何処までも川を下り、宛てもなくぬくもりもなくただ流されるまま。そんな少女の唯一の希望は、やがて東京湾へと辿り着くことのみ。
母なる海に抱かれることを夢見る少女を乗せ川は流れる、降り続く雪を無限に吸い込みながら。辺りはまだ真冬の夜が白々と明けたばかり、加えて雪の降る川の岸辺に佇む人影などあるとも思えない。あったにしても精々酔っ払いか、じゃれ合うのに夢中の恋人たち位。まさか凍り付くよな川の面を赤子が、しかも素っ裸で流れゆくなど誰も夢想だにしない事。もし万が一発見したとて、大方捨てられたキューピー人形か何かだろうと勘違いし見過ごすのが関の山。と思いきや、幸か不幸かその時川の途上の河原にひとりぼんやりと佇む厚化粧の女がいる。
女は降り頻る雪の中に傘も差さずハイライトをくゆらしながら、寒々とした朝の大気中へと気だるげに白い煙を吐き出している。女、年は中年か初老といったところ。その女がばったりと、川を流れる赤子に気付くのである。
どんよりと空は灰色に曇り、朝といってもまだぼんやりと薄暗い。なのに雪の降り注ぐ川の面の或る一点、ちょうど赤子が浮かんでいる場所だけがなぜか朝陽が射したようにきらっと眩しく光ったものだから、女はついそこに目を奪われる。
なんや、あれ。当然初めは物か何かと思う。お人形さんか、それともどんぶらこと流れる大きな桃の実みたいなもんかいな。ところがどうも様子が違う。まさか、はっとして女は息を呑む。まさか、赤ん坊ちゃうやろな。そんな筈ない、冗談か悪戯か、悪い夢でも見てるんちゃうやろなあ。
でも、そのまさか。どきどき、どきどきっ、女の鼓動が高鳴る。何度目を擦ってみても、間違いない。あれま、何でや。もしかして死んでんの。兎に角急がな。
女はさっさとハイライトを放り捨てると、ざぶざぶ、ざぶざぶっ、はあ冷たい、でもそんなん気にしてる場合ちゃうと、勢い良く川の中に入ってゆく。幸い浅瀬、しかも具合良く強風が岸辺の方角へと吹いて、ゆらゆらと赤子を乗せた川の流れを女の足元へと引き寄せる、かくして赤子は女の目の前に辿り着く。
女は無我夢中迷うことなくその両腕で、さっと赤子を拾い上げる。どきどき、どきどきっ、女の鼓動が今にも止まり掛かった少女の鼓動を包み込み、女の手のぬくもりが凍り付いた少女の心を溶かす。こうして少女はやっと生まれて初めて、人の胸、人の愛に触れるのである。これが少女が初めて迎えた、この世界の朝。
何や、やっぱし赤ん坊やないの、しかもすっぽんぽん。何て哀れ何て酷いことを、犬畜生でもようせんわ。あほか、何処のどいつや、どんなばか女の仕業や、しょうもな、呆れ返って文句も言えへんと、文句のひとつも言いたいところ。でも今はそんなことしてる場合ちゃうと、女は血相変えて慌てまくる。
死んでへんか、いや生きてる。凄いな、ようまあ生き延びて。きっと運のええ子や、何とか助かるんちゃうか。女は確信を持つ、絶対助かるで、だって見てみ、この子、にこにこ笑ってるやないの。確かにその時女の腕の中で、少女は笑っているのである。その健気さについ女は涙を零しながら、救急車を呼ぶ。
女の努力の甲斐あって、少女は病院で手当てを受け奇蹟の如く一命を取り止める。その後結局、女が少女を引き取ることに。なぜかというと、懸命なる警察の捜索にも関わらず少女の身元は分からず、名乗り出る親も現れない。このままでは施設行きとなるのを不憫に思った女が、これも何かの縁や、この子は自分への天からの授かりものかも知れへんと、養子縁組するのである。
女はそれが可能な境遇でもある。女はひとり身で、親も亭主も子供もいない。ひとりで店を経営し、細々と暮らしている。少女を引き取った女は店を営みながら、少女の面倒を見る。女は結婚も出産の経験もないけれど、女の店には経験豊富な女たちがいて、惜しみなく女の育児に協力する。女の店とは、ソープランドである。女は少女が捨て子であることは周囲には伏せていたが、誰も皆女の実の子でないこと位は直ぐに見抜く。少女はこうしてソープランドの片隅でソープ嬢に囲まれながら育つ。
幼い少女は、まだそこがどういう場所なのか知る筈もない。凍り付く川から救い出された少女にとってそこはまだ天国であり、その頃が少女にとって一番幸福な季節でもある。同様に女にとっても少女は天使であり、どうにも可愛くて堪らない。まだ赤子の少女は手は掛かるけれど、女の最大の喜び、生き甲斐となる。と共に店のソープ嬢たちにとっても、少女は慰め、アイドルになる。彼女たちは皆満面に笑みをこしらえ、代わる代わる少女を抱きかかえ、満足しては辛い仕事へと赴く。一仕事終えると女たちはまた少女の許へ帰って来て、金銭と引き換えに犯した自らの罪を清めるかのように、清らかなる少女の笑みに触れ束の間の安らぎを味わう。
「ほんと、雪ちゃんはいい子ね。ちっともぐずらないもの」
店の娼婦たちは、少女が泣かないことに一様に驚く。
「いや、それがな、実は今迄いっぺんも泣いたことないねん」
「へえ一回も、嘘」
「ほんまや。そやさかい心配やねん、何や悪い病気ちゃうやろか思て」
女の心配も当然のこと。気のやさしい女とソープ嬢に囲まれながらも、少女は一時としてあの事を忘れられない。
あの事……。あの女、自らを宿し初めて少女が接する鼓動で包み守り、この世界に産んでくれた女。あの場所、自らが生まれた暗黒の牢獄のような空間とそこにいた狂気の男たち。ゴロ助の手のぬくもり。あの川の冷たさとあたたかさ、自らを運んだ雪降り頻る川の流れと、海への憧憬。
ところが成長し物心つく年頃になると、少女は女が自らを川から拾い上げてくれたことすらも含め、それら過去の記憶の一切を綺麗さっぱり忘却してしまう。
嘘や、わたしは絶対に忘れへん、絶対にあの頃のことを。なぜなら、あの頃こそわたしの命の原点やし、わたしの人生のすべてなんやから。幼い少女は必死に誓う。けれど時の経過と忘却の定めから逃れることは少女とて不可能である。いや、それでもわたしは忘れへん、絶対にわたしは……。
はっと目が覚める雪。たった今身を任せていた筈の夢の記憶さえもまた、さっと綺麗に忘れ去り、雪の中にはただぼんやりとした悲しみだけが残る。
春の彼岸が過ぎると、お節がけたたましく宇宙駅のドアを叩く。その時雪は窓の向こう、風に舞う桜の花びらをぼんやりと眺めている。
「何、何の騒ぎ。ほんま騒々しな」
怒ったように宇宙駅のドアを開ける雪。ところが目の前には青ざめた顔のお節が突っ立っている。
「どないしたんママ、そんな死にそうな顔して。しっかりして」
「これがしっかりしてられるかいな。な、あんた、よう聴いてや」
「何、改まって」
「今な、変な電話あってん」
「変な電話、何それ」
で、お節が語る電話の一部始終。
「和田いう人の奥さんからや」
お節の声は徐々に熱気を帯びる。
「和田、誰やろ」
「知らんわ、大方こないだのあんたの客ちゃうか」
「あの先生。知らんわ、そないなこと。で、何て」
「それがな、聴いて吃驚、ご主人さんが昨日亡くなりはってんて。なあ、何でや」
「何でやて、知るかいな、そんなこと」
けれどお節の興奮は高まるばかり。
「けどおかしいやろ、これで三人目や。あんたの客の三人が三人共て。なあ、どう考えてもおかしいやろ」
「おかしいも何も、知らんわ雪」
「ほんま。ほんまに何にもあんた、変なことしてへん。恐いで、うち」
「分かった、分かった。ほで電話て、それだけ」
雪としては和田が死んだことより、なぜ和田の奥さんが電話してきたのか、そっちの方がよっぽど気になる。
「ああ、それだけや。何でも生前もし自分が死んだら、ここに連絡して知らせろ、いう本人の遺言があったらしい。そやさかいわざわざ奥さん掛けて来はったんやて」
「ふうん」
「ふうんて、それだけか」
さっぱり気のない雪に、逆にお節の興奮はピークに到達。
「あんた、なんか呪われてんちゃうの、ええ。あんたやっぱし、この商売向いてへん。な、止めよ、さっさと。このままやと、もっと大変なこと起きる」
「んな、大袈裟や」
「何が大袈裟なもんかい、ほんま、おっそろしい娘やな、あんた。ちっとは恐ろしがってよ」
「なんも、恐ろしことあらへん」
「何言うてんの。な、何でその人そんな遺言残さなならんの、え、気色悪う」
けれど雪は「ふわーっ」と大欠伸、ぼんやりと窓の外の桜の花びらを眺めている。その細い背中が妙に寂しげで、お節の興奮も途端にトーンダウン。
「でもまあ、あんたが殺したいう訳でもないし、死んだもんはしゃないなあ。死人に口なし、桑原桑原」
言葉を濁して、宇宙駅を後にするお節。
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