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(小説)宇宙ステーション・救世主編(八・三)

(八・三)子犬と少年
 エデンの東は休業したものの、まだまだ騒ぎは治まりそうにない月の終わり、金子夫妻が揃って息を引き取る。有名な実業家である為その死は直ぐにマスコミで報じられるも、死因は桜毒ではないという。否実は桜毒であるのだが、それでは今何かとお騒がせの魔性の娼婦、雪との関係が取り沙汰される故、金子の経営する企業のイメージ悪化を恐れ、別の理由にしたという訳である。従ってマスコミ報道は米国にて金子所有のセスナ機が事故を起こし、夫婦揃って事故死したと伝える。これにより皮肉にも雪への非難は向けられずに済んでしまう。
 しかし相変わらずTV、マスコミのチェックに余念のないお節から雪に二人の死が伝わるや、雪は愕然とする。もし二人の死因が桜毒だとしたら……。でもおかしな、雪が接触したんはあざみさんだけやのに、どないなってんやろ。深いため息と共に憂鬱が心に重くのし掛かり、雪はどうしても子犬と少年に会いたくなる。今夜ならきっと、会える筈や。
 恐る恐るカーテンの隙間から外に目をやる。もう夕暮れ時、夕陽が赤々と燃えて空を染め上げ、侘しく物悲しくまた人恋しい夏の日暮れである。セスナ機なあ、セスナ機でもあれば直ぐにでも飛んでゆけるやろに、背中に翼があればええのになあと、またため息。幾ら外を見ても相変わらずの人だかり、これでは一歩として外には出れそうにない。はて、どうしたもんか。下手な変装しても直ぐにばれてしまうし、タクシーでも駄目。誰かしら後を付いて来る、マスコミ、パパラッチの執念の凄まじさ。それでもにいさんたちに会いたい。山のように動かない外の連中が恨めしい雪である。
 弁天川も夏まっ盛り。今頃河原には蛍が群れなし妖しい瞬きを放っているに違いない。くちなしの花の甘い香りもそこかしこに漂っているだろう。下流の町まで足を伸ばせば、夜市だってやっている。にいさんを連れてって喜ばせたい。
 夜の帳が下りて、どないやろと外の様子を覗いても、相も変わらず店の周囲に張り付くマスコミ連中。あーあ、やっぱあかんわ、もう死ぬまでこっから出られへん。蛍にでもなって河原に飛んでゆきたい、蛍の光になって……。雪が深いため息を零すその時、
「ワン」
 何処からか犬の鳴き声がする。
 はあ、まさか。子犬のにいさんちゃうやろな。にいさん、雪は急いで外を見る、カーテンの隙間から。すると宇宙駅のガラス窓の上方に光、ふたつの小さな光が瞬きながら張り付いているではないか。何やろ、と見ると、それは蛍。二匹の蛍がそこに留まっているのである。
 何で、こんなとこに。吃驚した雪はそっと窓を開け、恐る恐る手を伸ばす。ところが蛍は二匹共さっと何処かへ飛んでいってしまう。あーあ、行ってしもた。がっかり、また雪がため息吐こうとしたその時、今度は、トントン。宇宙駅のドアを誰かが叩く。
「だーれ」
 おっかな吃驚、雪が呼ぶと、ドアの向こうからはお節の声。
「わてや、あんたにお客さん連れて来た」
 お客さん、そんなあほな。
「何で休業ちゃうの、お店。お客さんて誰」
「ええから、はよ開けて」
 言われるままドアを開けると、何とそこには、お節の背後に少年。は、にいさん、何でここいてんの、夢ちゃうやろな、目を丸くする雪。少年の胸には子犬も。
「ワン」
 鳴くが早いか子犬は少年の胸から飛び降りて、そのまま思いっ切り雪に飛び付く。
「あらら、何で」
 吃驚仰天の雪に、
「あんたの知り合いや言うから連れて来たで。一体何処の子や、ま、ええか、後は頼むで」
 そう言い残すとさっさと宇宙駅を後にするお節。

 宇宙駅のドアを閉じれば、そこは子犬と少年と雪だけの空間。ぺろぺろぺろっと雪の頬っぺたを舐める子犬、くすぐったくて嬉しくて堪らない雪。
「どないしたん、にいさん。ようここ、分かったなあ」
「この子がここまで連れて来てくれたんだよ」
 少年の答えに呼応するように、子犬がくんくん、くんくんと雪の匂いを嗅ぐ。ああ、成る程、そういう訳かあ。
「流石、子犬のにいさんやな、偉い偉い」
 よしよしと子犬の頭を撫でる雪。
「ちょっと待っててな」
 子犬を下ろすと、事務所の冷蔵庫から食べものを掻き集め戻って来る。
「お腹減ってるやろ。ほら、遠慮せんと食べて」
 雪に言われるまでもなく、がつがつと食事を開始する子犬。にこにこ少年と雪がその姿を嬉しそうに見詰めている。
「そや」
 思い出したように雪。
「にいさん、後で夜市行こ、な」
「でもお姉さんの周り、意地悪な人でいっぱいだよ」
 カーテンの隙間から外を覗く少年。
「ほら、あんなに」
 でも雪は強がってみせる。
「平気や、にいさん。あんなん、ちっとも気にせんでええて」
「ぼくなら、充分ここで楽しいよ」
「ほんま、にいさん」
 きょろきょろと宇宙駅を見回す少年、好奇心に満ちた眼差しがとらえたのは、ベッドの棚に置かれた一冊の書物。じっと見詰める少年に、
「にいさん、興味あんの。遠慮せんと、読んでもええで」
 けど読めるんやろか、意味分かるんかいなと微笑む雪。
 少年は目を輝かせその書物即ち新約聖書を手に取ると、貪るように読み始める。その間雪は沈黙したまま、嬉しそうに少年と子犬とを交互に眺める。少年のページをめくる速さが尋常ではない、十分、十五分、少年はあっという間に最後のページまで到達する。けど雪は少年が単にページをめくっただけやろと高を括る。子供に分かる訳ないやん、だから内容について感想など聞かない。
「な、にいさん。また人死んでもた、しかも女の人まで一緒やねん」
 少年が新約聖書を元の場所に戻すが早いか、雪は少年の手をぎゅっと握り締める。
「な、にいさん、これからどないなる思う。雪の周り、こない騒動になってもて。雪、正直恐いねん」
 けれど少年はにこっと微笑んで、
「大丈夫だよ、そのうち大人しくなるから」
「ほんま、にいさん。それ聴いて、少しほっとした」
 少年の手を片方の手で握り締めたまま、もう片方で今度は雪が新約聖書を取る。
「な、にいさん。神様て、ほんまいてると思う」
 神様、冗談で雪が発したその言葉に、少年の手から伝わる鼓動が、どきどき、どきどきっと一瞬激しく脈打つのを雪は逃さない。
「かみさま、神様って、な、にいさん」
 どきどき、どきどきっ、明らかに少年が動揺している。そんな沈黙する少年の顔をじっと見詰めながら、更に問いを重ねる雪。
「な、にいさん。最後の審判て来ると思う」
 どきどき、どきどきっ、少年の動揺、鼓動の乱れは増すばかり、今度は最後の審判という言葉で。何でやろ。そこへ、子犬が吠える。
「ワン」
 いつ食事を終えたのか、子犬はじっと宇宙駅の天井を見上げている。
「どないしたん、子犬のにいさん。天井に何かいてるん」
 子犬に問う雪に、くすくすっと少年が笑い出す。
「いやや、どないしたん、にいさんまで」
 見詰める雪に、少年が答える。
「宇宙船だよ」
 へっ、成る程と少年に頷く雪。それから思い出したように、
「実はな、にいさん。雪、この部屋のこと何て呼んでる思う。宇宙駅、言うねん、この部屋。宇宙駅、な、そやから、もしかしてYoshiwara駅て、ここのことちゃう。どない、にいさん」
 期待を込めて問う雪に、残念ながらかぶりを振る少年。
「Yoshiwara駅はね、あの川のもっと上流の方なんだよ」
 へっ、Yoshiwara駅は弁天川の上流。
「ほんま、にいさん」
 けれどもう少年は目を瞑っている。子犬も同様に大人しく目を閉じて、既に少年の空想の中。あらら、置いてけぼりは堪忍やと、雪も一緒に目を瞑り空想の中へ。意識がすーっと快感と共に吸い込まれてゆく。
「宇宙船、今夜は何処停まりはんの、にいさん」
「今夜はね、冥王星ステーションだよ」

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