見出し画像

(小説)宇宙ステーション・救世主編(五・三)

(五・三)子犬と少年
 宇宙駅にひとりの雪。思うは死んだ黒石ではなく、子犬と少年のこと。実は雪、月の初めより弁天川に行くのを止めている。なぜなら、警察が動き出したのに気付いたから。のこのこと弁天川へなど出掛ければ間違いなく尾行されるであろうし、少年の存在を知れば警察の手はあれこれと少年にまで及ぶに違いない。
 子犬と少年のことは誰にも触られたくない、知られたくない、雪にとって大切な宝物であり秘密であり、今や雪の唯一の心の支えでもある。そんな汚れなく美しき宝石が誰かの手によって汚されてしまうことが、雪には耐え難い。なぜなら今の雪自身には何ひとつ純粋なるものなど一欠片も残されていない、身も心も汚れていると自分でも悟っているから。だから守りたい、せめて少年の純粋さだけは、どうしても守りたい雪である。
 けれど今日は、無性に会いたくてならない。死ぬ程の疲労困憊と、黒石の死を知ったことによる憂鬱。それに今迄、誰かが死んだことを知った日あの場所、弁天川の河原にゆけば、子犬と少年は必ずいてくれたのだから。警察が調べるかも知れないとはいっても、少年は少年、所詮まだ子供である。幾らあの少年を調べたところで、手掛かりなど何もつかめる筈はない。なぜなら当の雪ですら、なぜ自分との関係によって男たちが桜毒に感染し死んでゆくのか、今もってその理由が分からないのだから。
 よっしゃ、行ったろ。雪は弁天川に行くことを決意する。夜の訪れを待って、宇宙駅を出る。変装することも考えたが、ばれたら却って怪しまれる。だから正々堂々とコートにミニスカ、ハイヒール、いつものファッションで決める。春とはいっても夜はまだまだ肌寒く、コートなしでは心許ない。
 エデンの東を出て、ネオン煌めく吉原の街を颯爽と歩く雪。ほら、来た来た。足を止め振り返ると、背広姿の男二人組がぴったりと後を尾行している。そんなことは気にもせず、先ずはコンビニに寄り子犬の食料を購入。後は一路弁天川へ。でも警察が付いて来るのに、あの子たち姿を現すやろか。歩きながら、不安がよぎる。
 やがていつものように、弁天川のせせらぎが耳に届く。岸辺には小さなふたつの光。ああやっぱりいてるわ、どないしょ。雪は川に沿った桜並木の通りで一旦足を止める。桜は既に満開を過ぎ今はひたすら吹き荒れる風に花びらを散らして、川沿いは一面桜の雨。川岸には草が生い茂り、昼間は色とりどりの花が咲いて、虫たちが忙しく飛び交っている。
 ぼおっと立ち止まったまま、仄かなふたつの光を見ていた雪の耳に「ワン」と子犬の鳴き声。雪に気付いたのだろうか。と同時にふたつの光は明滅を始める。しかもその速度は徐々に高まり、今にも消えてしまいそうである。慌てた雪は一気に駆け出す、カタカタ、カタカタッとハイヒールの音が辺りに木霊する。雪の足音が近付くと共にふたつの光は失われ、河原には子犬と少年がその姿を現す。
「ワン、ワン」
 雪に飛び付く子犬。にこにこといつものようにその様子を眺めている少年。
「にいさん、元気してた」
 早速子犬の食事、雪はしゃがんで子犬に食料を与える。少年も雪の隣りにしゃがみ込んでしばしにこにこしていたけれど、不意にその顔が悲しみに曇りじっと雪の横顔を見詰める。
「にいさん、なんか雪の顔、付いてる」
 気になる雪は少年に問い掛ける、けれどかぶりを振る少年。
「お姉さんの顔、今夜も悲しそうなんだもの」
 そら、しゃない。諦めたように雪が答える。
「だって、にいさんな、また男の人死んでもた」
 ため息の雪に、少年もまた困惑の相を浮かべる。二人は黙って子犬を見詰める。
 本当なら雪は、少年の手をぎゅっと握り締めたい。けれど恐らく何処かから、さっきの男二人組が覗いているに違いない。ここはじっと堪える雪。小児性愛者などと思われてはかなわない。とはいっても今となっては正直雪も自信がなくなっている。こんな少年に興奮するなんて、正に小児性愛ではないか。
「な、にいさん。桜綺麗やな、あんな一杯散って。あっち行って花見しよ」
 子犬が食事を終えると、雪は少年を誘う。少年は黙って頷く。立ち上がり少年の手を引いて、河原から桜並木へと移動する。尻尾を振って子犬も後から付いて来る。並木の中の一本の木の陰に例の二人組が身を潜めているのに気付いた雪は、彼らから離れた木の下で仲良く少年と腰を下ろす。
「桜の木の下にはな、にいさん。死体が埋まってんやて。そやさかい桜の花は綺麗なんやろか。きっとな、にいさん」
 じっと雪の顔を見詰める少年を、雪もまた見詰め返して、
「死んだ人の顔は、みんな綺麗なんやろなあ。そやさかい、にいさんな、死んだらみんな、仏様て呼ばれるんちゃう」
 黙って頷く少年。
「こんな夜は、お酒でも飲みたいな、にいさん。ほやからはよう、にいさんも大きなって一緒に飲も」
 すると「ワン」少年と雪の間で子犬が鳴く。
「そやそや、子犬のにいさんも一緒にな」
 くすくすっと笑みを零す少年。
「笑い事ちゃう、にいさん。ほんま、はよ大きなって立派な男の人なって、な、雪のことお嫁さんにして」
 ぽっと少年の頬が赤らむ。
「御免、御免、冗談や。でもにいさん、そん時雪もう、ええおばちゃんやな」
 ところが少年はかぶりを振って、
「そんなに待たなくても、ぼくなら直ぐに大きくなるよ」
「へえ、ほんま。そら頼もしな、にいさん」
 少年の手を握り締める雪。汗ばんだその手がいじらしい。くすぐったそうに笑う少年。
 その時微かな物音がして、少年の顔から笑みが去る。少年は立ち上がり叫ぶ。
「そこのおじさんたち、もうばれてるんだよ」
 すると例の二人組の男たちが、さっと何処へともなく逃げてゆく。
「ずっとお姉さんのこと、見張っていたね」
 えっ、知ってたん。じっと少年の顔を見上げる雪。
「でも大丈夫。お姉さんなら絶対に捕まらないから」
 絶対にて、捕まらへんて、何で断言出来んの、ほんま不思議な子や。
 男たちが遠くへいなくなると、待っていたかのように少年は空を見上げる。桜吹雪の上空に瞬く銀河を仰ぎ見る。星々の瞬きの中に何かがきらりと光る。
「ワン」
 子犬も光に向かって吠える。
「ほら、宇宙船だよ」
「にいさん」
 少年の声に頷くように立ち上がる雪。
「何処。な、にいさん、今夜は何処いてはんの、宇宙船」
「ほら、あそこだよ。今夜はね、蠍座ステーションに停泊するみたいだよ」
 蠍座、蠍かいな、縁起でもあらへん、蠍の毒に桜毒の毒。苦笑いの後、少年の瞳をじっと見詰める雪。見ているのは少年の瞳なのか宇宙の銀河なのか、雪には判断がつかなくなる。ただその中に、確かに一艘の宇宙船が浮かんでいるのが見える。今はただ少年の瞳の中に映る、銀河の海だけが雪を包み込んでいる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?