(小説)宇宙ステーション・救世主編(六・三)
(六・三)子犬と少年
吉原に夜が訪れると、雪はいつものファッションに身を包み宇宙駅、エデンの東を後にする。ミニスカにハイヒールは良いけれど、流石にコートはもう季節外れ、重く暑苦しい。そうと分かっていても、コートを羽織らずにいられない今夜の雪。何かで自分の全身をくるみ守っていないと落ち着かない、外出するのが不安、恐怖でならないのである。
吉原の目映いネオンの通りを歩きつつ幾度となく後を振り返ってみるけれど、尾行の気配はない。警察はまだ海野の死に気付いてへんのやろか、否そんな筈はない、天下の警視庁やろ、油断したらあかん。コンビニに寄り、後は一路弁天川へ。
川沿いの通りに出ると、矢張りいつもの河原に小さな光がふたつ、流星の欠片の如く明滅している。今夜も雪を呼ぶように瞬いている。誰かが死なな、おうてくれへんやて、つれないお人やなあ、とため息吐いて、ゆっくりゆっくりハイヒールの音も静かに近付く雪。歩調を合わせるように河原の光は弱まり、やがて息絶える如く消えてしまう。
「ワン」
子犬の鳴き声は相変わらず元気、勢い良く雪へと飛び付いて来る。少年は黙って、子犬と雪の抱擁を嬉しそうに見ている。
「元気してた、にいさん」
早速子犬に食事を与えながら問い掛ける雪に、少年は黙って頷くばかり。
「な、にいさん。こないだのおじさんたち、なんかにいさんにしてこんかった。大丈夫やったの」
心配な雪の問いに、今度はかぶりを振る少年。
「ほんま。なら良かった、にいさん」
胸を撫で下ろす雪。
見渡すと河原には草花が咲き乱れている。昼間なら虫たちが集い、さぞや賑わっているに違いない。夜とてお月さんが照り無数の星々が瞬いているから、川の面は煌めき、せせらぎも耳に心地良く歌い掛けて来る。弁天川もそろそろ夏の佇まいへ移り変わらんとしている。
「にいさん、また男の人死んでもた」
食事中の子犬の頭を撫でながら、雪がぽつり。少年は黙ったまま、悲しそうに雪を見詰めるだけ。子犬の食事が済むと、少年と雪は河原に腰を下ろし川面を眺める。雪の手が少年の手をつかまえる。川の水はもう冷たくないのか、子犬は無邪気に川に入ってじゃぶじゃぶと水浴び、驚いた魚たちが飛び跳ね逃げ惑う。
少年の手を握り締めながら、雪がまたぽつり、今度は問い掛ける。
「な、にいさん。男の人、何で死んだ思う」
けれど少年は困った顔でかぶりを振るばかり。川面に映った満月を子犬が蹴散らし、水飛沫が雪にもかかる。
「冷たいなあ、子犬のにいさん」
くすくすっと少年が笑みを零す。
「にいさん。雪な、その男の人と寝たん」
ねたん、きょとんとした顔で雪を見詰める少年。
「にいさん、分かる、寝たて。寝るてどういうことか分かる」
けれど少年は泣きそうな顔でかぶりを振るばかり。しばし黙って見詰め合う二人、雪の手は少年の手をぎゅっと握り締めて離さない。女の喜びが雪を襲う。じっとそれを噛み締めながら、呼吸も乱れ、とろんとした目で快感の中に身を漂わせる雪。
「にいさん、雪、恐い」
雪に応えて、うん、と頷く少年。
「にいさん、雪と寝た男の人、みんな死んでまうねん。みんな、おんなじ病気なってな。何て病気か分かる、にいさん」
少年に分かろう筈もない。
「桜毒、言うねん、病気の名前。な、にいさん、桜毒」
すると少年は、雪の言葉を真似してゆっくりと呟く。
「おうどく」
その時、川の中で子犬が「ワン」と吠える。川の面に映るひとつの光が、夜風に吹かれてちらつく。子犬は川から上がり、その光を捜して夜空を見上げる。少年と雪も後に続き、二人は立ち上がり銀河へと目を向ける。
「ほら、宇宙船だよ」
嬉しそうに少年が雪に向かって微笑む。おうどく、うちゅうせん、汚れ無き少年の眼差し。
「今夜は何処。何処まで来はったの、にいさんの宇宙船」
にいさんの宇宙船、にいさんの。ぽっと顔を赤らめる少年、ぶっきら棒にこう答える。
「乙女座ステーション」
「乙女座、ほうか、にいさん。ええな、雪もそんなとこ、行ってみたい」
雪は目を瞑る。雪の暗黒の脳裏の中に、少年の空想が流星のように雪崩れ込む。
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