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(小説)宇宙ステーション・救世主編(十・四)

(十・四)木星ステーション
 ザヴザヴシュワー、ザヴザヴシュワー……絶え間なき宇宙の波音に混じって聴こえ来るは、第三惑星人グスターヴ・ホルスト作曲、組曲『惑星』。幾多の笑みを浮かべ、幾多の涙に頬を濡らした、我らみな永遠なる銀河の旅人兼戦士なり。理想の星、理想世界、豊かなる暮らしを探し求め、永久の夢を追い求め、幾たび戦い幾たび勝利し、高き志しの下幾度となく高度なる文明を築き上げたれど、求めし幸福は未だ得られず、じっと手を見る。遂には腐敗と堕落とに身を崩し、すべては無、砂塵の灰と化した。いつの世も真は偽りに、善は悪に、美はグロテスクによって冒涜され、敗北の憂き目を見たり。それでも尚、戦う銀河の戦士である我らは求めて止まない、やがて理想の宇宙の完成するその時を。今はこうして太陽系の片隅に甘んじ、戦いの傷を癒しながら、それでも尚、夜明けが訪れたならば旅立たずにはいない、傷ついた心の翼引き摺りながら。既にその時は近付いている、幽かなれどその足音がこの宇宙の波間に、ほら耳を澄ませば。すべての偽りと悪とグロテスクとを粉砕し永久の無へと帰する、そう、最後の審判の足音は、もう直ぐそこまで。

 バビブベブー、こちらは木星ステーション。メシヤ567号殿に告ぐ、ようよ、ここまでご無事で何より。救世主はんはまだでっか。ああ、そうでっか。何かとお忙しいご様子で、はあ何よりです。まだ例の最後の審判のご準備に追われてはりまっか、第三惑星の受け入れ態勢がまだ充分に整いませんですか、そうでっか。
 昔、例えばノストラダムスの大予言だとか、二千年問題だとか、はたまたフォトンベルトでしたっけか。まあそんな類の毎度毎度お決まりのお騒がせなる終末予想が現われては、これで最後最後と騒ぎ立てといて、されどどいつもこいつも肩透かしばかり。未だ最後だった例がない。やれ世の終末だ、第三惑星の終わりだ、第三惑星人の滅亡、文明の破滅だなどと大袈裟にフィーバー、好きに踊らせといて、いざ蓋を開けてみれば、はい、平穏無事。なーんだよ、まったくもう、いい加減にしてよし子ちゃん。そしたら何事もなきゃ、それはそれで良ござんした。何事もないに越したこたない、やれやれ良かったですねえなどと、後はすっとぼけの知らん振り。まったくもって無責任の厚顔無恥。今度こそは一丁、是非とも頼んまっせ。我ら太陽系の惑星連中も固唾を呑んで見守っておりますさかい、そこんとこ宜しゅうお頼み申しやす、と来たもんだってんだ、いやまじで。以上、バビブベブー。

 ピポピポピー、これはこれは木星ステーション殿、こちらはメシヤ567号。ご心配は御尤も。まだちょっと救世主は取り込んどりまして。何しろ第三惑星に於ける悪の所業が、最後の審判の条件を満たすに後もう一歩というところまで迫って来ておりまして、はい。ここは細心の注意の上にも注意をば払いながらの詰めの段階。よって救世主自らが出向いてことに当たっておる次第であります。
 成る程太陽系惑星の諸氏に於かれましても、第三惑星に咲いたる悪の仇華、悪の文明が如何なる運命を辿りまするかは、何よりの関心事。たかが第三惑星、されど第三惑星。高々ひとつの惑星の命運なれど、太陽系、銀河系へと周囲にどれ程の影響をば及ぼすかは計り知れぬところ。何しろ宇宙に於けるバランスは大事、結構疎かには出来ぬもの。さて如何相成りますやら。
 ええ、ええ、悩ましきは彼のYoshiwara駅で御座います。宇宙にまたがる時空間夜行列車のそこは終着駅。ところが現在そこに栄えまするは、見た目はネオンちかちか派手なことこの上ないなれど、実体は悪によって咲いたる仇華なり。第三惑星人たちの血と汗と涙をば吸って、弱き者貧しき者をば犠牲とし痛めつけて得た資金を元にはびこっております。
 では我らが救世主がいよいよいよよ、この悪の華をば裁くに当たりまして、はい。まずそもそも救世主と名乗りながら、世を救う主な訳で、そんな救世主ともあろう者が、なぜに裁くのか、とこういう素朴な或いは不可解なる疑問が誰の胸にも生じます。救世主たる者、善悪無差別、如何な悪人共ですらもひっくるめて救うのが筋ではないのか、と。
 悪い奴が悪い奴となるのにも、それなりの理由というのがちゃんとある訳で、総じて悪に負ける、悪の誘惑に転げ落ちてしまうという弱さが原因です。なれば充分に同情の余地ありと言わざるを得ない。そこら辺の弱さを鑑みて、心やさしく罪をば許し悔い改めさせ天国へと導く、それこそが救世主のお役目ではあるまいか。善人を救うのなんざ、第三惑星人でも出来ること。それを裁くだなんて、それじゃ第三惑星人共の裁判官と何ら変わりゃしないじゃあーりませんか。悪い奴等は滅ぼす、詰まり死刑って訳でしょ。だったら救世主なんぞ、何の存在価値が御座いましょうってんだ、とそんな不満を抱かれるのも御尤も。
 では救世主に成り代わりまして、そこいらの点お答え致します。なぜ救世主は裁くのか、最後の審判とは何か。これには第三惑星人知を遥かに超越したる宇宙の永き計画いうもんが御座いまして、そこいらが微妙に関わってくるので御座います。成る程確かに善も悪も無差別に救いたい、その気持ちは救世主とて同じ也。それが出来ますならば、如何程楽か知れません、救世の大業も楽勝。
 ところがどっこい、宇宙は遥かなる昔よりずっと少しずつ進化を遂げているので有りまして、それは太陽系のほんの片隅に浮かぶ一惑星に暮らす者共などからは想像すら出来得ないこと。では進化、その進化とは一体如何なる進化なりやと申しますれば、それは簡単に言いまして、宇宙もまた善と悪とが闘争しつつ天国と地獄とが絶えず戦争を繰り返しながら、徐々に善が勝利し天国化していくということに他なりません。三歩進んで二歩下がるって奴ですな。例えればちょうど第三惑星人の歴史が、未開なる原始時代から文明社会へと徐々に進歩しているようなもの。それが宇宙規模でも行われているという訳です、はい。そしていずれの日か、宇宙は完全なる天国宇宙へと進化を遂げる。それが壮大なる宇宙の計画であり、それこそが創造主がこの宇宙世界をばこしらえた深遠なる理由に他なりません。
 ではそんなご立派な天国宇宙ならば、成る程善人にはまこと居心地が宜しい、なれど悪い奴等にとっては如何でしょ。第三惑星人の歴史に於いてすら、古きものが新しきものに取って変わられ詰まり淘汰され、時代は進歩して参りました。新しい時代に於いては古きものは居場所を失い、衰退しやがて絶滅してしまうのが世の常。ならば天国宇宙に於ける悪も同様、衰退しやがて滅亡するのが定め、とこうなります。
 成る程悪い奴等の中にも説得すれば確かに善人になっても構わないと申す殊勝な者もおりましょうが。そうではない、俺は悪のままでよい、悪の世界でなければ生きられない、悪でなきゃ詰まんねえじゃんかよ、と申す者もおりましょう。悪とまでは言わなくとも、例えば孤独でいたい、寂しさや哀愁が好きだ、堕落、デカダンを好む、素人娘より厚化粧の風俗女がええべえ、第三惑星人の悪に負けてしまう弱さが俺は好きで堪らない、なーんて、そんな者だって世の中には確かにいるのです。
 その者らは、言わば自らの美学、哲学として悪を良しとし、天国を嫌い地獄に堕ちることを望む訳です。世界から一切の哀愁やら弱さが滅びてしまうのなら、俺も一緒に滅び去るのみだ。悪と共に自ら望んで滅びの道を選ぶぞよ。そんな彼らを説得することは、流石の救世主とてなかなかに困難なこと。そうするとやがて彼らは宇宙の中に、その存在する居場所を失ってしまうことになります。それでは余りに可哀相という訳で、ここに最後の審判、即ち救世主による裁きがあるので御座います。
 裁きとは詰まり進化したる宇宙に残す者は残し、そうでない者はばっさりと滅ぼす、宇宙から永久に抹殺する、ということなのです。でも悪にとってはどっちにしろ遅かれ早かれ居場所がなくなる訳ですから、その前に滅ぼすということは、即ち滅ぼして上げる、一思いに楽にして上げるということであり、詰まりは裁きとは、救世主から悪の手下共への慈悲とも言える訳です、なんてね。
 とまあこんな感じでけちな御託を並べちまいやしたが、そこで彼のYoshiwara駅で御座います。さてYoshiwaraは、売春は、善か悪か。この点をばいよいよ裁かねばなりますまい。勿論悪には相違ない、しかしそうとばかり決め付けられないのがまた切ない。売春に対し第三惑星人の一部には必要悪などと称する者もおりますが、言い得て妙。間違っても善ではないが、その存在を否定も出来得ない。善ではまかない切れない役割をば、せっせと果たして来たのもまた事実。ではなぜ悪なのに必要なのか、必要なのに悪なのであるかと申せば、それは超簡単。現在の第三惑星人文明世界がまだ悪を必要とする世界であり、悪によって成り立っている側面が多々あるということに相違ありません。
 売春もそのひとつ。具体的には、世には一生女に縁のない男というのも存在しておりまして、では彼らは一生女を抱く喜び快楽を得られずして死んでゆかねばならぬのか。それは余りにむごいこと。一方には女にもてもての男もいる訳で、余りに不憫、不公平じゃあーりませんか、ねえあなた。そこで登場したるが、古くは遊郭、現在のYoshiwaraとこうなる訳。では救世主はん、この必要悪なるYoshiwaraを、あんた一体どうすんの。ああ、何とも悩ましや、正直まだ結論は出ておりません、ほとほと頭を抱えておるまっ只中でありまして、言わば青春時代のまん中で尖がっておる最中です。
 ほら彼のYoshiwara駅の街角の風景を御覧なさい。今宵も寂しき男共の背中が行き交うアスファルトの路地にも、僅かながら雑草が芽を出しており、それがひんやりとした秋風に吹かれ笑うように揺れていたり、また草の陰に身を隠したる美声の虫たちは、善とか悪とか無差別に切々と鳴いているではありませんか。何と慈悲深き虫たちよ。とは申しましてもYoshiwara駅までの旅程も後残り僅か。決断の時が刻一刻と迫っておることも十二分に承知している救世主でありますならば、さて如何致しますやら、はてはて弱った弱った。

 ザヴザヴシュワー、ザヴザヴシュワー、こうして一星一星、星屑宇宙の中を今宇宙船はYoshiwara目指して、確実に近付きつつあるのである。ピポピポピー、ピポピポ……ザヴザヴシュワー、ザヴザヴシュワー……。

 少年の空想はそこで途絶える。雪の耳には何かが聴こえ来る、それは少年の子守唄。雪は目を瞑ったまま聴いている。
『家の灯り、町の灯り、駅の灯り、ざわめき、犬のなき声、子犬が足に絡み付いてきた、まるで叱られて家出する少年、ひとりぼっち泣きそうな顔こらえて、子犬とふたり……祭りの灯り、いろまちの灯り、ネオンの波に濡れながら、とうとうここまで来てしまった、世界で一番眩しくて、宇宙で一番悲しい場所。子犬が突然なきだした、まるで合図を送るように、女の子がひとり、えさをやろうと店から飛び出してきた、悲しいほどに似合わないミニスカートにコートをかけて、誰の夢がかない、だれの夢がついえたか。とうとう宇宙船はいってしまった、お腹を空かした子犬と桜毒の少女を残して、あんまり眩しかったので、宇宙ステーションと間違えたんだな吉原のネオンサイン、どうせなら奇蹟のひとつでも起こしてゆけばいいのに……』
 子守唄が終わると、雪はそっと目を開く。けれどもう弁天川のほとりに、子犬も少年の姿もない。少年の手を握り締めていた筈の雪の手には、ただ一輪の彼岸花があるばかり。

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