ティンダロスの犬神

「ねえ貴方、獣の匂いがするわね」

 女性が気軽に入れると評判のお洒落なブックカフェで、見ず知らずの人間にそう話しかけられた尾柴千帆(おしばちほ)は、その身と表情を強張らせた。

 テーブルごとに置かれた一輪挿しと、淡い色調の内装のあちこちに、回転式の書架を生やした春の森のようなカフェ。
 美味しいケーキと上質な読書が楽しめるとテレビ番組に取り上げられてから、急に混み始めた。一介の女子高生である千帆も、客の一人だ。

 店内は、珈琲の香ばしい湯気と、書籍の乾いた紙とインクの香りが混ざり合っている。そんな平和な空間に、『獣の臭い』という言葉はあまりにもそぐわない。

 知らない人間に親しげに話しかけられたことと相まって、清水に落ちた一滴の墨汁のように、千帆の胸に不安が広がっていく。

 彼女には、店を出て行く、店員を呼ぶ、少女の言葉を否定する、又は神経を逆撫でしないように適当に話を合わせるなど、幾つかの選択肢があった。

 千帆は、震える声で囁いた。

「わ、わかるんですか……?」

 彼女はどれも選ばなかった。

『獣の臭い』に心当たりがあったのだ。

「ねえ、ちょっとおしゃべりしない?」

 千帆の返答を待たずに、二十歳そこそこだと思しき女は、勝手に二人がけのテーブルの差し向かいの席へ座る。

「困ってるんでしょう?」

 女は不躾にもその指先で、テーブルに置いていた千帆のスマホ画面を叩いた。

 千帆は呆然と画面を見つめる。

 スマホの画面には、無機質な検索エンジンが開きっぱなしになっていた。

「御祓い 神社」

「幽霊 取り憑かれる」

「寺 除霊」

「魔除け 塩」

「ついてくる 音」

「神社 呪い」

「霊感 ないのに お化け」

 千帆自身が検索し続けていた、悪夢じみた単語の羅列。

 そんな、検索履歴を埋める不穏な文字群を一瞥して、女は笑った。

「わたしの名前は、波崎真友(なみさきまとも)。よろしくね!」

 波崎真友(なみさきまとも)は奇妙な女性だった。

 絶世の美女だった。緩く癖がかった黒髪を背中まで伸ばしていた。
 長い睫毛は黒目がちの目を一層大きく見せていた。
 白い頬は、八月の半ばでありながら日焼けの概念を知らないかのように澄んでいる。

 ごく普通の女子高生に分類される千帆は、白雪姫が日本に生まれたら、このような姿かもしれないと、とりとめもなく思う。

 しかし、女優もモデルも目ではないような、圧倒的な華やかさを持つ彼女に、注目する人は千帆の他に誰もいない。店員でさえ、真友に気付いていないようだ。注文を取りに来ないし、水も持ってきてくれない。

 その完璧に近い相貌に付き物であろう存在感が全くない。彼女は不自然に気配が暗かった。
 清楚な紺色のワンピースも、個を埋没させる黒子の衣装のように感じるのだ。

 しかし、千帆を取り巻く臭いに気付いたのは真友だけ。

「あの、『視える人』なんですよね? お願いです助けてください! 少し前からずっと困っていて……お化けみたいな、見えない動物に付きまとわれてるみたいで……」

 初対面の、得体の知れない女性に千帆はすがる。
 理路整然とは言いがたい拙い言葉で、その不安と自身の窮状を訴えた。

 私、尾芝千帆っていいます。高校二年生です。
 霊感なんて全然ないし、そういうオカルトみたいなのも苦手で……だから本当に心当たりがないんです。

 ひと月前から、辺りからずっと、変な臭いが消えないんです。大抵はうっすら漂ってるくらいなんですけど、凄く強くなるときもあります。もう、気持ち悪くなるほど臭くて。でも、誰も臭いに気づかないみたいで。

「それってどんな臭い?」

 嗅いだことがない臭いです。獣みたいな、腐ったような、肉を焼いたような……。
 放っておいたら今度は音がするんです。人間じゃない、何かの足音が、縁側を歩くちゃっちゃって爪が当たるような軽い足音。
 和室の畳を掻くような音も聞こえました。何かが私の周りにいるんです。音も臭いも、私以外誰もわからない何かが。

 そのうち、庭が荒らされて、何かの爪痕が残ってたり、うちの池の鯉が全部噛み殺されていたりして。

 母は気のせいだって言うし、学校のカウンセラーには受験のストレスからくるノイローゼだって病院紹介されたりとか、しました。

「それは大変ね」

 それで、昨日、寝てる時に目が覚めて。そしたら真っ暗な自分の部屋に、誰も何もいないはずなのに、すぐそばで、唸り声みたいな音と、生臭い湿った『息』が掛かって!
 御祓いとか除霊を頼むしかないと思ったんですけど、近くのお寺や神社の人も、当たり前なんですけど臭いがわからないみたいなんです! 嘘じゃないのに誰も信じてくれない。私、どうしていいか………。

 涙声で話し終えた千帆が、息を詰まらせる。

 真友は、相槌を打ちながら、熱心に聞いてくれた。

「信じるわ。多分、わたしは千帆ちゃんの力になれると思う。貴女が今どういう状況にいるのか、その臭いがなんなのか、教えられる」

 余裕のある真友の頷きに、千帆は顔を上げた。

 初めて自分を取り巻く異常を信じてくれた安心感。雰囲気のある美女の力強い笑みは、無闇に怯えるしかなかった自分をすくい上げてくれるようだった。

「でもね千帆ちゃん、本当は、心当たりがあるんじゃない?」

「……え?」

「心当たりとまではいかなくても、怪異のきっかけくらいはわかっているわよね? まだわたしに隠していることがあるでしょう。人に言えないようなこと。例えば……んー、人を呪い殺してやろうと思ったとか」

 真友は長い指を立て、千帆の胸を指す。

 千帆の肩が震えた。

「あるでしょう?」

「わっ、わ、私は…………」

「わたしには、わかるのよ」

 店内の照明が暗くなったような錯覚を覚える。
 冷房のせいか、ひどく寒かった。

 黒い瞳が千帆を射抜いている。吸い込まれるような深い色。

 身を乗り出して千帆を見つめる真友から、目をそらすことができなかった。知らず知らずのうちに千帆の唇は緩み、秘めておきたかった忌まわしい感情が吐き出された。

「未遂ですけど、夢だと思っていたんですけど……男の人に、痴漢……いえ、襲われたかも知れません。……その時に、死ねばいいのにって、思いました」

真友は目を細めて、続きを促した。

 ひと月前の夜だった。流行りの音楽を聴きながら英語の単語帳を片手に、いつも通りの毎日を送ろうとしていた学校帰りの千帆は、その日、大柄な男に裏路地へ引きずり込まれたのだ。

 イヤフォンで耳が塞がれていたため、男が潜んでいたことに気付かなかった。
 通学路を歩き慣れていた足は、そこが人通りのない薄暗い場所であると忘れていた。

 スマホの入った鞄は男に蹴られて手の届かない所に投げ出された。

 千帆は裏路地の地面に組み敷かれ、もがきながら男の濁った目を睨みつけた。

 混乱していた。

 なんでなんでなんでこんな目に。
 真面目で派手な服も着てない繁華街なんかにも行っていない、私が。

 恐怖と悲嘆と膨れ上がる激情が、粗野な腕で塞がれた口から声のない叫びとなって溢れた。

「っっっっっっっ!!!」

 世を呪った。
 女の身を恨んだ。
 そして、自分の足を力任せに開こうとする男への殺意が爆発した。

 嫌だ。
 助けて。
 触らないで。
 死ね。
 殺してやる。

 無言の呪いが胃の腑を焼いたその時。

 ぐゎん!

 金属器を床に叩きつけたような大きな音が、千帆と男のすぐ側で弾けた。

 千帆にのしかかっていた男が動きを止める。

「おっ?」

 男の左手首が、なくなっていた。

 暗い夜の路地裏で、黒い影にしか見えない男の前腕から先が消失している。

 切断された腕の断面の、その中心にある骨が白く光る様を、千帆は間近で視認した。

 いつの間にか、吐き気を催す臭いが充満していた。不浄がこごったような凄まじい悪臭。

 男が遅ればせながらやってきた激痛に腕を押さえ、悲鳴をあげる前に、男の弛(たる)んだ首に何かが喰らいついた。
 どこからか現れ男を攻撃したそれは、宙に浮く、狂った獣に見えた。

 ぐゎんぐゎんぐゎんっ!!!!

 ひび割れた音が爆ぜる、爆ぜる。

 喉笛を噛み破られ、声もあげられず悶絶する男の、脚が、腹が、『何か』の牙によって削り取られていく。

 みるみるうちに男の黒い影は、大きなクッキーを齧り取っていくかのように嵩を減らし、気がつけば、千帆は路地裏に呆然と座り込んでいて、男はもういなかった。
 血の一滴、服の一欠片さえ見つからない。
 幻であったと納得出来るほど、男の存在は裏路地から消失していた。

 ────そう、今のはただの夢。私はぼうっとして入り込んだ路地で尻餅をついただけ。制服だって汚れたり破けたりしている訳じゃない。男なんていなかった。
 だって、あんなこと現実にはあり得ない。

 何度も自分に言い聞かせて、千帆は立ち上がった。

「夢だと、思ってたんですけど……」

「夢じゃないわね。千帆ちゃんが無事でよかった」

 封印していたあの晩のことを思い出し、べそをかく千帆を真友は慰める。白い指先が千帆の化粧気のない頬を撫でた。

「貴女につきまとっているのは犬神よ。守ってくれたのなら本当に幸運だった」

「犬神? 妖怪ですか?」

「うーん、妖怪というか、使い魔というか……まぁ、犬神の話はおいおいしましょう。その前に千帆ちゃん、クトゥルフ神話ってご存知?」

「神話?」

「ちょっと待っててね」

 真友はふいに席を立つ。

 ブックカフェのカフェスペースには、無料で閲覧出来る書架がある。

「あったあった」

 書架から真友が持ってきた本の表紙には、触手と蝙蝠の羽を生やした奇怪な怪物が踊っていた。

「何これ」

「クトゥルフ神話。ラヴクラフトっていう十九世紀生まれの精神薄弱な無神論者とその愉快な仲間達が書き残した怪奇小説よ。色んな人によって拡張されていく世界観が体系化されて、架空の神話にまとめられたの」

 怪奇小説。

 急に出てきたカタカナの羅列と海外由来のCGイラストに、千帆の涙は半分乾いた。

「ざっと説明すると、太古から地球を支配してたのは、タコとかイカみたいなグロテスクな宇宙生物で、人間が神だと思ってたのは邪神や宇宙生物だからこの世に人間本位の慈悲はなくて、今は皆別の世界にいたり眠ったりしてて静かなものだけど、冒涜的な存在に触れた人は例外なく発狂する。きゃーこわーい! そんな筋立ての小説を、ラヴクラフトは何作も偏執的に書き続けたの」

 自分の相談した『獣』から、彼女の出した創作小説は余りにも浮いている。

 フィクションを楽しげに説明する真友に、なんだか裏切られた気持ちになった。

 未遂であれ、強姦被害の経験まで話して助けを乞うた相手が、ただのオカルトマニアだったとしたら、とんだ時間の無駄だ。

「私、帰ります」

「現代では評価されているラヴクラフトだけれど、彼の物語が現実のものであることを知る人はいないわ。彼と仲間達の書いた物語には、『おぞましい悪臭を放ち、突如現れて人を襲う何か』についても記されてる。ティンダロスの猟犬と呼ばれる、狙った相手の血さえ流させずに殺す獣についても」

 立ち上がりかけた千帆は動きを止める。

「馬鹿にしてる、んじゃないんですね?」

「まさか! 前口上が長くて悪かったわ」

 真友は本のページを開き、青い粘液を滴らせた、舌の長い怪物の挿絵を見せた。

「ティンダロスの猟犬。『尖った時間』とでも訳せばいいのかしら、異常な角度を持つ空間に住まい、清らかな曲線の中で生きるわたし達人間を憎み、襲いかかる不浄の存在」

「ティンダロスの猟犬」

「ラヴクラフトは悪夢に怯え世紀末に震えながら、夢の中で見えたおぞましい真理を生涯書き残していった。普通の人は異存在なんて見えないわ。でも、瞑想してトランス状態だったり、精神を病んでたり、人生に絶望してたり、お酒や麻薬を使って錯乱してるときに、異存在と繋がってしまうことがあるの。彼もそうだったのかしら」

 大判の本に書かれた説明を読む千帆に、彼女は尚も続ける。

「ねえ千帆ちゃん、ラヴクラフトについて少し喋ったけど、貴女はクトゥルフ神話を恐ろしいと感じる?」

「え、」

「彼が恐怖のまま綴った、神ではない触手まみれの無慈悲な怪物が、世界の全てを支配しているかもしれない事実を聞いて、心の底から、狂いそうなほど怖いと思う?」

 急に質問されて、千帆は首を傾げた。

「いや、別に、ホラー苦手ですけど気が狂うほど怖いなんてことは……」

「ふふ、怖くないわよね。ラヴクラフトは十九世紀のキリスト教圏に生きた人だし、イカとか軟体生物が大嫌いだったの。クトゥルフ神話は、救済論を信じ一神教の神を奉じ、馴染みのない海の生物に恐れを感じる当時の欧米人ならではの恐怖なのよ」

 真友は頬杖をつき、教え子を愛おしむ教師のように目を細めた。

「日本人は海産物に慣れてるし、多神教なのが当たり前、神仏集合だって当たり前じゃない? 神の祟りもよくあること。ラヴクラフトが知覚して発狂しかけた、理解し得ない存在を、理解し得ないまま尊ぶ土壌が整ってる。つまり、わたし達は他の国の人より、───異形の神々を受け入れられるの」

 うっとりと真友は微笑む。
 その陶酔した姿はぞっとするほど美しい。

「素敵でしょう? わたし達は、異形を受け入れられる器が少し大きいの。ラヴクラフトの恐怖した世界の真実を、不条理を、より原始的で細分化された多神教の信徒達は、大いなる存在として肯定できるの。その場合、神は混ざるわ」

 芝居の台詞や哲学的な小説の朗読のように、不吉な言葉が蟲の如く、千帆の頭に入り込む。耳を塞いでしまいたかったが、何故か出来なかった。

「私たちに理解できないモノは、私たちに理解できないモノに混ざるわ。宇宙的な恐怖をもたらす神々は、土着の妖怪に姿を変え、国つ神と情交して新たな鬼神を生み出し、伝承にその一部を残す。古いお宮の御神体が、異形の神の髪一筋かもしれない。だから、『鋭角より来たる魔物』が、日本の呪いの一種である『犬神』と結びついて、巡り巡って千帆ちゃんを困らせている、ってこともあるのよ」

「そんなこと、あり得るんですか?」

「何故あり得ないと思うの? この国は、大昔から怨霊を神にする国よ。外つ国の神を有り難がって祀る国。八百万いる貴きモノのどれかに、邪神や人智を超えた宇宙生物がいないと、何故思えるの?」

 何も言えなくなる千帆をしり目に、真友はため息をついた。その瞬間、二人の差し向かうテーブルを占めていた、不気味でなまめかしい空気が霧散する。
 真友は、ただの影の薄い、美しい人に戻っていた。

「とりあえず、猟犬が貴女のことを、急に襲うようなことはないわ。怖くても、恐れては駄目。しないと思うけど、献血もいけないわ。何か読むなら可愛い話にしておきなさい。怒らず、騒がず、平穏を保つことが肝要よ」

 スケールの大きな話を散々しておきながら、最後のアドバイスは月並みなものだった。
 なおざりな助言を添えてから帰る素振りを見せた真友を、千帆は呼び止める。

「待ってください」

「なあに?」

「まだ、犬神について、伺っていません」

「………犬神についてなら、わたしの話よりも、パソコンや書籍をあたった方が詳しいわよ」

「どうせ、『ティンダロスの猟犬』と混じった『犬神』は、普通のものとは違うのでしょう? 教えてください」

 怖じずに食い下がろうとする千帆に、真友は再び興味を覚えたようだった。

 彼女は黒い鞄から素早く鉛筆とメモ帳を取り出して、数字を書き付ける。
 可愛らしいメモ用紙を一枚千切って、千帆に差し出した。

「わたしの電話番号よ。今日はもう遅いからお開きにするけれど、今の突飛な話を聞いて、まだわたしのことを信じられるなら連絡して。それから、貴女のお祖父様お祖母様が生きてるのなら、犬神の話を振ってみるのもいいかもね」

 千帆がメモ用紙を受け取ると、軽く手を振り、真友は立ち去る。自動ドアを抜けて店を出る黒子のような後ろ姿を追って気付いた。

 外が暗い。

 慌ててスマホの時計を確認すると、既に九時半丁度だった。話に夢中で気付いてなかったが、店内は既に閑散としている。
 千帆が学校帰りにカフェに入ったのは四時前だ。千帆の体感時間では、四時過ぎに真友が話しかけてきた。真友との会話をしたのは大目に見積もっても一時間ちょっと。いつの間にか、五時間以上も、彼女の薄気味悪い話を聞いていたことになる。

「あの人、何者なの?」

 閉店間近のブックカフェで、頭を抱える千帆に、店員が明るい声で「ラストオーダーの時間でーす」と知らせにやってきた。

 平穏を保つことが肝要。平凡な助言は意外にも有効だった。

 とりあえず、自分を取り巻く怪現象に名前が付き、猟犬が千帆を急に襲うことはないと断言され、少し安心した千帆は何十日振りかのまともな睡眠を取れた。

 翌日目覚めた千帆は、昨日の話を整理する。
 事実を書く怪奇小説家。宇宙生物を受け入れられるこの国。鋭角より来たる不浄の犬。あり得ないと断じてしまえばそれまでだ。しかし、現に千帆を襲った男は消え、千帆は現実に見えない獣の臭いと音に悩まされていた。

 自室で息を吸う。
 一月前から常に感じる形容し難い悪臭は、睡眠のおかげか自分の精神が安定しているからか、日常生活に差し障りがない程に薄らいでいた。足音も吐息も聞こえない。

 真友の助言通り、穏やかに過ごしていけば、そのうちティンダロスの猟犬とやらもつきまといを止めるかもしれない。千帆は嬉しくなる。

 千帆を襲った男は消えてしまった。死んだのだろうか。しかし、死ぬべきであったとも思えた。女の子を襲うなんて最低だ。多分生きていても同じ犯罪を繰り返すだろう。

「ティンダロスの猟犬が、襲われてる女の子を守る妖怪、とかだったらいいんだけど……」

 都合の良すぎる妄想に苦笑しながらも、千帆は希望を捨てきれなかった。
 臭いも足音も恐ろしいが、猟犬が千帆を暴漢から救ったことは事実なのだ。昨日見せてもらった本には不浄の存在と書かれていたが、悪いものだとどうして言い切れよう。

 波崎真友の、完璧に近い容姿を思い出す。
 パニック寸前になっていた千帆に話しかけ、砕けた口調でラヴクラフトについて説明してくれた麗人。
 雰囲気こそ不穏だが、彼女は案外親切な女性かもしれない。

「今日は、久々にばあちゃんとこに遊びにいこうかな」

 今日は夏期講習もない。犬神について調べるつもりだった。
 真友は祖母や祖父に話を聞けと言っていたが、父方の祖父母はとうの昔に鬼籍に入り、話を聞けるのは母方の祖母のみである。
 犬神とは、祖父母の代ではそんなに有名なものなのだろうか? 桃太郎や因幡の兎みたいに、有名な昔話なんだろうか。

 夏の暴力的な日差しが強まる前に祖母に会いに行こうと、千帆は急いで服を着替えた。

 祖母は、とても優しい人物だ。
 常に優しく、愚痴を言わず、労苦を進んで引き受ける。叱られたことすらない。
 そんな祖母に育てられた母もおっとりしていて、やはりお人好しの父と結婚した。夫婦関係は非常に良好だ。

 燦々と照る真夏の太陽によって、自宅から徒歩三十分ほどの距離にある祖母の家を訪ねる頃には、千帆は汗だくになっていた。

「ありゃー、千帆ちゃん、久しぶりねえ!」

 祖母は挨拶もそこそこに、濡れタオルと冷えた麦茶を振る舞ってくれる。

 冷房の利いた茶の間で、麦茶に浮いた氷の溶ける音を聞きながら、高校生活をはじめとした近況を喋る羽目になった。

 寂しいながらも悠々自適な独り暮らしの話に耳を傾けつつ、頃合いを図って話題を変えた。

「ねえばあちゃん」

「なんだい?」

「今日、聞きたいことがあってここに来たんだけど」

「ありゃ、千帆ちゃんの気に入るお話を、あたしは知ってるかねえ」

「あのさー、犬神って、わかる?」

 こわごわと尋ねながら、祖母に顔を向けた千帆は驚愕した。

 温厚な祖母の、皺に埋もれていた小さな目が真開かれていた。

「どこで聞いた、それを」

「えっ……?」

「誰に言われた!?」

 初めて聞く、祖母の荒らげた声に、千帆は怯える。
 狼狽する祖母が落ちつくのに、少し時間が掛かった。

 日が陰った静かな茶の間で、ようやく祖母は重い口を開く。

「千帆ちゃん。これは、お前のお父さんもお母さんも知らないからね、内緒にしといてね。そいで、誰にも言うてはいかんよ」

「うん」

「ばあちゃんは見たことがないけれど。ばあちゃんの三代前までご先祖は犬神さんを祀ってたらしいんよ」

「祀ってた? お稲荷さんみたいに?」

「お稲荷さんとは違うのよ。もっと恐ろしいもんよ。頼まれて、見えない『犬』を、人に憑かせるの。そういう呪い」

 呪い。

「犬神さんは、普通の犬の形をしてなくて、取り憑いた人は獣臭くて窒息したり、血を抜かれたりしてしまいには食い殺される。ご先祖は犬神さんを飼って、それで生活していたのだって」

 真友が昨日言及を避けた『犬神』は、宇宙的な化け物というよりは、民話や伝承の延長線上にある、もっと素朴で生々しいものだった。
 しかし、血も流さず人を殺す、犬でなき異臭の犬は、確かに犬神という存在に該当する。

 疲れた様子で祖母は息を吐く。

「それだけでもおっかないが、犬神さんは強い神様だから、ご先祖が出そうと思わなくとも、出てきてしまうのよ」

 千帆の胸の奥が冷たくなってきた。手に冷や汗が滲む。

「綺麗な着物を着た奥さんを羨んだだけで、奥さんに憑いて悪さをする。そこの家族が犬神さんのとこに新しい着物を持ってくまで苦しめるの。犬神さんのとこの子をからかっただけでも、勝手に憑いてしまう。犬神さんは血に居着く神様だから、うちの家は嫌われていたらしいんよ」

「羨むだけで、勝手に、憑く」

「大正時代になってからは、外法や呪いも廃れたから商売換えしたらしいが、嫁入りには苦労してね。犬神さんを知らない流れ者と駆け落ちしたり、大変だったんだと。あたしのお祖母さんは地元を離れて女工をしていた時に、お祖父さんと知り合って結婚してね。女工の仕事は辛いけど、『犬神持ち』っていう目で見られないから、友達が出来て嬉しかったって言ってたわ」

 祖母は遠い目で過去を想う。

「本家との関わりはとっくに切れてるし、あたしも空襲を経験したけどお化けなんて見たこともない。犬神さんなんていないに決まってるけど、ばあちゃんも、ばあちゃんの母親もその母親も、いいつけを守って、出来るだけ怒らないようにしてたのよ。散々言い聞かせられたもの、」

 代々秘されてきた血筋とその戒めを、祖母は孫へ伝えていく。
 節をつけた声が、ざらりとかすれた。

「『うちは、血筋だから。死ねとか、嫌だとか、悪い心がみぃんな刃になる。悪い心が膨れれば最後、犬神さんが目を覚ます。犬神さんに目を付けられて、誰かを殺してしまったら大事じゃ。決して怒るな。人を呪うな』」

 祖母は、代々継いできた教えを、一月前、知らずに破ってしまった千帆に諭す。

 怯える孫に、祖母はひたすら繰り返した。

「だからね、決して人を呪ってはいかんよぉ。嫌なことをされても笑って流すんよ。何があっても人を憎んではいかんよぉ」

 祖母の家を出たのは昼過ぎだった。
 やかましい蝉時雨の中、ふらふらと歩きながら、千帆はスマホで犬神について検索していく。

『犬神筋:犬神につかれた家筋。 女系を伝わるといい、縁組を忌み嫌う俗信がある。 犬神持ち』

『犬神:憑き物の一種。一般に、犬の霊とされ、人に憑いてさまざまな祟りをなすとされる』

 千帆の心は恐慌状態だった。

 祖母の優しさの源が、『決して憎まず』という代々伝わる病的な戒めであったことに竦んでいた。
 祖母から千帆だけに与えられた、父も母も知らない事実。
 自分が、忌むべき犬神を使役していた一族であること。

 祖母が昔ながらの迷信だとしか考えていなかった犬神の実在を知る千帆の息は、過呼吸寸前まで荒かった。

「あの男は、私が殺したんだ……」

 犬神は、女の子を守る妖ではなく、恨みのままに使役される呪いなのだ。
 千帆の悪い心によって目を覚ました犬神が、男を殺したのだ。

 胸が潰れそうな罪悪感。
 重すぎる血を受け継いだことに対する衝撃。

 その心の揺らぎに乗じて、今朝まで落ちついていた猟犬が騒ぎはじめた。
 早足になりつつある千帆の心臓の鼓動と合わせて、後ろから『見えない獣』が、追ってきていた。
 鼻が腐り落ちそうな異界の臭いが夏の陽気に熱されて立ち上る。

 助けを求めて真友に電話を掛ける。

「もしもし」

 耳に当てたスマホからはすぐに、甘やかな声が聞こえた。

 日傘と生成色のワンピースという装いで、待ち合わせ場所である駅前の公園に現れた真友は、千帆を一目見るなり「あら、」と口元を押さえる。

「遅れてごめんなさい、ちょっと買い物があったの。それにしても、酷い臭い」

 二人にしか知覚できない猛烈な臭気と唸り声。

「私の先祖は、取り憑かれるような悪行をしたんですか。何故ティンダロスの猟犬を犬神にできるんですか。私はこれからどうすれば」

 歩き出す真友の横に並び、矢継ぎ早に尋ねると、彼女は日傘をくるりと回す。

「これは推測だけど、多分、千帆ちゃんのご先祖様、予知能力があったのよ。ティンダロスの猟犬は、時を越えた人間を感知し追跡するわ。過去見や未来見も、時間に触れる行いよ」

 電話であらかた千帆の家系について聞いていた真友は、周囲を取り巻く唸り声を意に介さずに、猟犬の話を続ける。

「ご先祖様は強い力を持つ善人だったはず。猟犬を利用できるくらいには、使い魔の使役にも長けていただろうけど、それも神使に近いでしょう。弱者に未来視はできないし、不浄の猟犬は穢れた命を襲わない」

「だとしたら、どうして逃げきれたんだろう? 猟犬は、狙った相手を殺すまで追いかけ続けるって本に……」

「猟犬は『曲がった時間』に生きる清らかな人を恨んで襲うから、生き残ったということは、『清らかでなくなった』んじゃないかしら」

 千帆の先祖がただの力ある善人であれば、彼ないし彼女は猟犬と戦い、いつか食われて終いのはずだった。

「猟犬が貴女のご先祖様を狙って時空を越えている間に、清い善性が穢されていたらどうなるかしら。強い力を妬んだ誰かに害されて破滅に追いやられたとしたら。執念深く追跡してきたのに、肝心の標的が汚穢と化していた場合、憎しみの当て処を失った猟犬は、近くの人を本能的に襲う。臭いを追って此方の世界へ何度具現化しても『憎らしい標的』が見つからない猟犬は、他の『清らかな魂』を代わりに食い続ける。それが貴女の血に伝わる『犬神』のルーツだと思う」

 真友は柔らかい笑みを浮かべた。

「ご先祖様の魂が、人に痛めつけられ人を離れ、彼方(あちら)側の世界に近くなった。素質のある人の恐怖と狂気と憎しみの果て、魂が壊れて割れて、鋭角を作るわ。現実に存在し得ない『尖った時間』も魂の中になら存在できる。魂が人とはいえぬ程割れたご先祖様は、この世界に生きながら、不浄なる「尖った時間」の領域に属するようになり、神使を扱っていた経験を元に、犬を尊び、その魂に眠らせる。清い人をそこまで堕ちさせるなんて、一体何をしたのかしら?」

 身の毛のよだつような推測を、千帆は否定できなかった。
 怨霊を神にする国だ、人の魂も容易く人から逸脱するだろう。

「貴女のご先祖様は、曲がった時間と尖った時間を繋げる小窓。悪意がつのり、欠けた魂が更に鋭く研がれた時、小窓は開き、犬が来る。時間遡行をする人間よりも、犬神筋が悪意を向ける人間の方が百倍多いでしょうから、猟犬は宇宙的な飢餓を易々と満たすことができる。怖いわね。誰しも飢えには抗い難いから、猟犬達の一部が、餌場の最短距離である犬神筋の魂を縄張りにしていてもおかしくはない。何世代も繰り返すことで、餌付けをされた獣のように、猟犬のありようさえ変えてしまう」

 美しい顔から紡ぎ出される一言一言が千帆を追い詰める。

「それにね、憑き物筋は嫁取りに難儀するのが常だけど、憑き物筋同士の婚姻はタブーではないから、他の憑き物筋と縁を結びやすい。飯綱使いに、蛇憑き。土着の猟犬ではない『犬神』の使い手とも婚姻が進むわね。血肉を介し、小窓は代を継ぐごとに歪んでいく。欠けた魂を媒介に行き来する猟犬も、憑き物筋の血に潜む他の獣達と混じり、歪んだ窓によって歪められ、形を変えていくでしょう。貴女の血に潜む犬はいわば雑種。ティンダロスの猟犬であり、犬神でもあるの」

 悪夢よりもおぞましい言葉を濁流の如く耳に流し込まれる。
 真友の歌うような言葉が千帆の脳内で反響し、ぐるぐると回っていくうちに、千帆の意識は朦朧としてきた。

 蝉時雨が、真夏の熱が、緊張の果ての浅い呼吸が、怖じて当然の獣の臭いが、千帆の思考を拡散させる。

 真友は澄んだ声で、吐き気を催す醜悪な邪推を朗々と語り続け、死装束のような白いワンピースをひるがえし、喪心した少女を導いていく。

 千帆は呪文めいた説明に蝕まれながら、歩いた先に何があるかも知らずに、ふらふらと付き従っていく。

「…………あれ………、ここどこです? ていうかなんですかあれ」

「あれは新興宗教の施設」

「は?」

 真友が指さすのは和風の建築物だ。

 膨大な説明と推測に催眠作用があったのだろうか、それとも真友の声に呑まれたのだろうか。
 前後不覚に陥っていた千帆が意識を取り戻すと、いつの間にか日は傾いていた。
 かなり歩き続けていたようで足が痛い。

 二人の歩く坂道の先には、高台にぽつりと建つ和風建築がある。
 真友は建物目指してまっすぐに進みながら、千帆を見下ろす。

「多分、経験則から理解してるでしょうけど、千帆ちゃんが、怖いとか嫌だとか、そういうマイナスな感情を持つと、犬神が活動的になるの。わかる?」

「はい、祖母もそうだと言ってました。それがあの宗教施設となんの関係が?」

「でね、千帆ちゃんは結構危ない状態なの。昨日今日の段階で襲われたりはないけど、まだ、千帆ちゃんの犬神を抑える方法がないでしょう」

 真剣な面持ちで、真友は声を低くする。

「『犬神使い』であった貴女のご先祖様が、平静を保つという精神論だけで、強力な使い魔を操っていたはずがないの。犬神は祟り神みたいなものだから、障りを無視してお気軽には出せないわ。まさか鼠やゴキブリが出ただけでびっくりした一族全員が咄嗟に犬神を召喚しちゃったら目も当てられない」

 決して笑い話ではないのだが、着物の女性達が悲鳴をあげながらゴキブリに犬をけしかけている様を想像してしまい、千帆の唇は思わず緩んだ。真友は千帆の様子に気付き、こんな恐ろしい話に何で笑っていられるの? ときょとんとしている。

「とにかく、犬神を使役するからには、少なくともう一段階はセキュリティが必要よ。ティンダロスの猟犬に人間風情の小手先なんか通じないけど、猟犬は犬神と習合しているの。犬神は使い魔。ミスや手違いや暴発はあるかもしれないけれど、絶対縛れるし、縛るものが絶対必要よ。貴女のお祖母様なら何か知識を残されてるか、犬神を鎮める道具とか、暴走しない手立てが書かれた古書を持ってることを期待してたんだけど……」

 千帆の先祖の犬神を扱う知識は途絶えてしまった。
 祖母は戦前の生まれだが、彼女でさえ犬神はただの迷信だと考えており、母は自分が犬神を呼ぶ血統であることなど知りもしない。ただ、怒る勿れという教えが残されているのみである。

 祖母も母も、ある程度穏やかに育ち、概ね満足して暮らしている。その人生は、『尖った時間』とはほど遠い。
 千帆とて、一月前の夜までは、殺意なんて生まれてこの方抱いたこともなかった。

 不運にも、この二十一世紀に、知識経験信仰が揃って断絶している中で、千帆は血と魂の檻に閉じ込められ眠っていた犬を起こしてしまったのだ。

 千帆は立ち止まる。

 一歩踏み出しかけた真友が何事かと振り返る。

「真友さんお願いです。助けてください。貴女しか頼れません。お金も払います。なんでもします。このままだと、私、大切な人を殺してしまう」

 深々と頭を下げる。

 ごく普通の女子高生である千帆は、羨まないことなどできない。
 ごく普通の女子高生である千帆は、怒らないことなどできない。

 このままだと千帆は、些細な心から犬神を呼び、巻き込まれた人を見殺しにする災厄となる。八つ当たりで親を殺し、可愛らしい友達を少し妬んで殺し、自己嫌悪で自分さえ殺す、制御できない化物となる。それだけは避けたかった。

「頭を上げて。千帆ちゃんのこと、ちゃんと助けてあげるわ。これから、千帆ちゃんの犬神の為にストッパーを作るつもりなの。荒療治になるけど、あそこの施設は何かと役に立つわ」

 千帆は頭を撫でられる。
 蝉時雨を日傘でよける真友の声は、いつも通り甘く、千帆にはそれが非常に頼もしく思えた。


『新興宗教の施設』は、放棄された古民家を買い取り、所々洋風に改造したような建物だった。

 外観は特徴のない和風建築であるが、壁は白く塗られ、玄関を開けて中に入ると、正面の最初に目に付く場所に、施設の教祖が書いたのだろうか、額に入った墨痕と朱印が鮮やかな書が飾ってある。崩し字なので読めない。

 引き戸を開け、出てきた白衣の信者らしき女性に、真友が挨拶する。

「先ほど連絡した山田です。入信希望者を連れて来ました」

 山田? 入信?
 千帆は横目で真友を見る。

「山田から話は聞いてますよ。本日入信儀礼を受ける犬飼さんですね」と新興宗教の信者特有の、鈍く輝く笑みを貼り付けた女性は千帆の手を取った。

 廊下の先にある別室に通される。用意された茶に、千帆は手をつけない。

「何故偽名を?」

「こんなスピリチュアルな宗教法人に個人情報知られるのも癪じゃない」

「入信ってどういうことです」

「手っ取り早く教祖に会うための方便よ。わたし、こういうこともあろうかと籍を置いてたの。あ、教祖に会ったら適当に頷いておいて。貴女、口が利けないことにしてるの」

「無茶苦茶な……」

 正直胡散臭い。施設も真友の態度も嫌な予感がする。
 でも、真友の紹介なら、こんな施設の教祖も、霊験あらたかなのかもしれない。でも真友が個人情報を秘しているのはおかしい。
 千帆は疑念を膨らませる。

 しばらく待つと、先ほどの女性に千帆のみが呼び出された。

 案内されたのは大座敷だ。
 いくつか襖が開けられ一つの大部屋となった和室。その一番奥に金襖があり、襖を背にして白い着物を着た、髭を生やした恰幅のいい老人が座布団に座っている。

「話は聞いたよ。可哀想にねえ。ご両親の過干渉に耐えかねて家出か。今は山田の家にいるんだってね。ほら、座りなさい」

 促されたので座ると、老人は千帆へ仰仰しく説教をはじめた。

「不幸は君のせいではない。全て悪霊のせいだ。社会は忙しなく余裕がない。穏やかに生きることを忘れてしまった市民に不幸は降りかかる……」

『犬飼』の半生を哀れがりつつ、教祖は信仰の素晴らしさ、社会の恐ろしさ、悪霊についてを延々と語る。

 出鱈目の半生を信じ安っぽい説教をする教祖を、口を挟めない千帆は冷めた目で見るしかなかった。これでは霊験も望めなさそうだ。余裕のなさから来る不幸ではなく、悪霊でもない、血に潜む異常に真友は苛まれているのだから。真友の方がよっぽど言葉巧みだろう。

 従順に頷きながら、千帆は退屈しのぎに庭を見る。縁側に面した襖も開いており、庭が一望できた。
 庭には等身大の観音を模したような石膏像がたたずんでいる。荒れた庭の中で、像だけが白く浮いていた。

「…だからね犬飼さん、山田に言われていると思うけど、入信には通過儀礼が必要だ。辛いこともあっただろうが、これからは、一人のまっさらな女に生まれ変わるんだよ」

「……?」

 聞き流していた千帆は意味がわからず老人を見つめる。しばらく話し続けていた教祖の老人が、おもむろに腰を上げ、奥座敷を開けた。

 

二組の布団が敷かれていた。

「………………っ!」

 これから何をされるか悟った千帆は硬直する。

「今日から、信徒の皆が君の家族、君は我が娘、神の妻だ。君はここにいていいんだ。ここが家だ。どんどん信仰を広めて、幸せになろう」

『犬飼』の、弱った心につけ込むアットホームな文句と共に、薄ら笑いの老人は、腰を抜かした女子高生に歩み寄る。

「ちゃんと、生娘のように扱ってあげるから」

 あの夜千帆を路地裏に引きずり込んだ男と同じ、不潔な髭と汚濁の目。

 トラウマである、好色な男。

 その油ぎった手が千帆の肩に触れ、その体温が薄い夏服を通して肌へ染み渡ったあまりの不愉快さに、千帆は反射的に悲鳴をあげた。

「きゃああああああああああああああっっっ!!!!!!」

 厭わしく、穢らわしい何もかもが千帆の魂を刺激したその時。

 ぐゎんぐゎんぐゎん!!!

 金属質な音が、響き渡る。

 それは、小窓の開く音だった。

「お前、喋れないんじゃないのか………ぎゃっ!」

 無口で扱い易い女と思い込んでいた千帆の突然の悲鳴に、ぎょっとした老人が一歩下がった瞬間、何かに押し倒され、床に転がった。

 蝉の声が一斉に止む。

 信者である白衣の男女が何人か、千帆の悲鳴と謎の金属音を聞きつけて此方へ駆けてきて、突如立ちこめる激烈な悪臭に鼻を押さえ、膝を折る。

「悪霊!?」

 老人は、夕方に近づきながらもまだ明るい外の光が照らし出す、千帆があの夜暗闇で見えなかった『猟犬』を間近で見た。

 それは、悪霊などという生易しいものではなかった。

 それは、犬であり、犬ではなかった。

 目を見開いて座り込む千帆の前を塞ぐように、青い粘液を垂らした、長い尾と舌のある獣が立ち、老人を踏みつけていた。

 獣でありながら、温かそうな毛並みや、柔らかな脂肪や筋肉は存在しない。

 錆と虹色の油膜の浮いた金属と化石にしか残存していない古代生物を、瀆神(とくしん)の錬金術師が掛け合わせて作ったかのような、不浄を体現した四足獣。

 歯は不必要なほどに鋭く多い。節のある舌は太く長い。

 ぐゎん!

 獣は一声鳴き、卑屈で醜く無力でありながらも、清浄な時間に存在する曲線の魂を攻撃する。

 その冒涜的な姿に発狂する前に、老人は肋骨ごと半身を食いちぎられ絶命した。

 血が溢れ出すかと思いきや、ティンダロスの猟犬は無機質な目を燃え上がらせ、今度はその長い舌を傷口に突き刺す。

 液体を啜る耳障りな音を、あまりの異常さに無言を貫く観客はなすすべもなく聞くしかなかった。

 血を吸い尽くされ、灰色の皺肌を晒して死んだ老人を猟犬はゆっくり食んだ。

「犬神」

 千帆は一言呟いた。

 それを合図に整然と整えられた日本家屋の、畳、板の間、長方形の机など、直角で形成された空間の至るところから、青黒い煙が噴き出す。

 日本式の家屋は直角でできている。

 信者が逃げる間もなく、施設中の敷地が牙を向いた。

 ぐゎんぐゎんぐゎん!!

 青黒い煙が凝縮し、獣の形をとる。猟犬が一匹増えた。

 何世代ぶりかに現世へ顕現した犬神によって柱が大きく抉られる。
 無残に削れた木肌は何十もの鋭角を作り出し、新たな犬神を呼ぶ。

 信者の女の引き攣った顔が、犬神の尾に頭部ごと弾き飛ばされて畳に転がった。頭のない胴体から滴る鮮血は、赤く染まった白衣ごと犬神の胃に収まる。

 まだ若い男が、二体の猟犬にたかられながらうわごとのように「これは夢これは夢」と唱えていた。骨が噛み砕かれる音が止まない。

「嫌ああああああああ!!! やだああああああああ!!!」

 惨殺されゆく人間という薪をくべられた千帆の心は、更に恐怖で燃え上がり、その波打つ魂は暴走し続ける。

 信者の一人が庭に逃げた。
 御神体らしき石膏像にすがろうとするが、その信仰が宇宙的な魔犬に通じるはずがない。
 咆哮と共に、石膏像は砕け散り、絶句する信者の胸は裂かれ、脈打つ心臓が露出する。

 臨月の女は、逃げ惑っている間に猟犬から分泌される脳漿のような体液をまともに浴びていた。
 青くへばりつく粘性の物体を髪や服から落とそうと必死になっていたが、次第にその体が変異し始める。
 青い脳漿に犯され、丸い腹が角張った時、彼女は鋭角の狭間に招待されたのだろうか、揺れ動きながら体が粘液に沈み、千帆の目の前から消えてしまった。

 次々と、荒ぶる犬神は人を喰らっていく。

 千帆は泣き叫び、人を庇おうと右往左往するが、何匹もの犬の前では守ろうとする努力など無駄だった。

「現代に再び蘇った犬神! なんて勇壮なの! 千帆ちゃんの家系が『犬神筋』として畏れられたのも納得ね」

 唐突に、呻き声と悲鳴と獣の唸りが反響する阿鼻地獄に、場違いに澄んだ声が発された。

「ま、とも……さん?」

 閉じた日傘を引きずり、縁側を土足で踏む女。白いワンピースには汚れ一つない。

「流石犬神、二十四人もの狂信者を一時に殺してしまったわ」

 真友はにこりと笑う。拍手でもしそうな雰囲気だ。
 千帆の困惑を感じ取ったのか、瞋恚に燃える犬神が真友への攻撃を躊躇っていた。

 怯えや殺人に対する忌避感が欠落したその口調は、今現在殺戮が行われている現場において、不自然極まりない。

 千帆は身構える。

 何故、この施設に誘ったの?
 何故、あの下卑た教祖に会わせたの?
 何故、今まで出てこなかったの?
 何故、人を見殺しにしたの?
 何故、この修羅の空間で、怪我一つなく生きていられるの?
 何故、助けてくれなかったの?

 真友が恐ろしかった。
 底知れない女(ひと)だ。味方でさえないかもしれない。あの優しい顔も偽りかもしれない。

 膨れ上がる疑念、失望、怒り、恐怖、混乱。

 しかし、千帆は異臭が誘う生理的な吐き気に耐え、胸を押さえ、異形が湧く早鐘の心臓を鎮めようとする。

 煮え立つ感情全てを呑み込んで、千帆は言った。

「逃げて」

 彼女を殺したくなかった。
 罪悪感で死にそうなのに、これ以上罪を重ねたくはなかった。

 犬神が猛り出す。

 犬の威嚇にも千帆の叫びにも動じることなく、真友は一歩、千帆へと近づいた。

 ぐゎんぐゎんぐゎん!!

 飛びかかる犬神の攻撃を、真友は横跳びに避けた。戦い慣れた動作だ。

 人間離れした速さで、すぐさま迫る犬神の尾を日傘で弾く。

「ねえ知ってる? 犬を変身動物、すなわちシェイプシフターと称する人もいるそうよ。わかる気がするわ。コーギーとハスキー犬なんて大きさも形もかけ離れているのに、双方の血を継いだMIXがいるんだもの。犬って様々な姿形の種類が混じりやすいのね。だから猟犬と犬神だって混じれる。魂は万物を煮溶かす坩堝」

 祖母に語られた『犬神さん』と、真友が語った『猟犬』が符合し、頭の中で溶け合わさる。坩堝から出でる混血種。

 神懸かった反射神経で真友は飛び上がり、またもや攻撃をかわした。

「千帆ちゃん。貴女のご先祖様は、長い間、この犬共を使役していたのよ。怖がっては駄目」

「真友さん! 逃げてください! 殺したくないのに! 犬が、止められないんです!」

「ね、怖くないの。犬なら縛れるわ。犬は縛れる」

 悲痛な千帆の言葉を無視して、真友はそう繰り返し、日傘を猟犬の目に突き入れる。

 ぎゃんっ!!!

 猟犬が怯んだ隙に、ポケットから、何か赤いものを取り出した。

「千帆ちゃん。猟犬も犬神も犬でしょう? じゃあ、その犬を無尽蔵に生み出す貴女はなあに?」

 千帆の肌が粟立つ。

 それはまさしく呪文だった。

 嗜虐的な質問が、千帆を狼狽させる。

 よどみない言葉に紡がれた透明な力が、千帆の耳から侵入して全身を満たしていくようだ。

 名状し難い感覚、耳から筋弛緩剤を流し込まれていくような感覚に襲われ、耐えきれずに千帆は嘔吐する。

 人はこれを言霊と言うのだろうか。

 主人を害された犬神が、競って真友に食いかかる。

 踊り上がり裂けた口を一杯に開いた犬神の喉奥目がけ、真友はどこからか取り出したテニスボールを投げつける。

 呑み込んでしまった犬の動きがにわかに鈍る。真友は酷薄に笑んだ。

「買ってきてよかった。やっぱり、鋭角から来たるモノだから、球体を体内に入れるのは嫌なのね。これじゃあキャッチボールもできないわ」

 軽口を叩きながら、真友は力ある言葉で、千帆を犬へと貶めていく。

「よく聞いて。千帆ちゃんは犬よ。犬を産むのは犬だもの。貴女は猟犬を胸に抱く犬。臆病で、人懐こい、優しくすればすぐ尻尾を振るような子犬」

 千帆は否定出来なかった。

 心を制御できず、人を襲うのは獣と同じだ。
 なら自分は、獣臭を撒き散らし、強い犬が吠えれば怯える弱い獣だ。
 私は、犬。

 悪意の塊である犬神を避け、攻撃を防ぎ、時には傘を振り回し、具現化した犬を退かせていく真友は、一歩、また一歩と千帆に近づいていた。

「そしてわたしは、魂に犬を持つ怖がりな貴女を助けてあげると約束した。ストッパーを作ってあげると」

 近づいてきた真友が、握りしめている赤いものが何かを、千帆はやっと認識した。

 赤く、細長い、革紐状のもの。

 赤い革の、首輪だった。

「そう、飼い犬には首輪を付けないと」

 その瞬間、真友は全ての攻撃と防御を放棄し、千帆の前に走り寄り、軽く抱きつく。

 真友の黒髪から香水とシャンプーの香りが漂う。良質な革が千帆の首に触れた。
 
 首輪。
 動きを縛るもの。
 主人の考えた名を下げる、所有の印。
 屈服と支配の象徴。

 千帆は動けなかった。

 真友は女性で、自分に好色な視線を向ける男ではなく、抱き締めるその行為には悪意も敵意も一切内包されていなかった。

 馴染みの麗人に抱き締められた驚きで千帆の心は占められ、真友が発する甘い香りが青黒い悪臭を数秒忘れさせ、僅かな間、千帆の頭から人殺しの罪悪感が抜ける。

 狂える猟犬が突進し、千帆ごと真友に覆い被さる。
 真友は千帆を守るように、又は犬神ごときに煩わせられることなどないと主張するかのように、犬神の悪意に抵抗しなかった。

 真友の無防備な背中を食い破ろうと犬神が歯を立てたのと、赤い首輪がアクセサリーのように千帆の首に巻かれたのが同時だった。

 ぴしゃんっ!

 首を飾る赤い円環を認識したと同時に、勢いよく窓を閉めたような音が脳内で爆発し、千帆の意識は闇に落ちた。


 千帆が目を覚まして最初に見たものは、千帆の額を撫でるたおやかな腕だった。

 千帆はまだ宗教施設にいた。
 真友は縁側に腰掛け、横たわる千帆の頭を膝に乗せ、庭の砕けた石膏像を眺めている。

 子供の頃以来の膝枕。起き上がろうとしたが、途轍もない疲労感が全身を鉛に変えており、指一つ満足に動かせなかった。

 息を吸う。肺を病みそうな悪臭や血臭はもう感じない。聞こえる音は蝉の声と、さざめく木の葉ずれだけだ。

 信者はどこにもいない。欠片一つ残さず食われた。

 金色がかった日暮れ前の薄い青空と、所々破壊された家屋。
 既に遺跡のような殺戮現場に居座る真友に話しかける。

「あの教祖が私に色目を使うと知って、私を差し出したんですか?」

「ええ、霊感もないペテン師や、お粗末なカルト教団が残ってたって、貴女みたいな子が騙されるだけだわ、むしろ善行よ」

 彼女の肯定。

「私の犬神が全員を食ったんです。私、人を殺して……」

「仕方ないわ。だって助かりたかったんでしょう? 貴女のお願い通り、貴女が大切な人を殺す前にストッパーを作る事ができたわ。しばらく首輪は外さないでね」

 首に違和感がある。首輪が付けられたままだった。真友が猟犬に投げつけたボールと一緒に購入した物だと、千帆はぼんやりと思った。

「都合良く犠牲が作れて助かった。首輪を付ける為には、千帆ちゃんが犬神を完全に召喚しないといけなかったんだけど、わたし、猟犬の遠い親戚だから、わたしだけじゃ敵意を持つ彼らを呼び出せなかったもの」

「……真友さんって、何者なんですか」

 不躾な問いに、真友はすらすらと答える。

「わたしはあくまで人間なんだけど、母の不義で生まれたわたしの、種馬もとい実の父親、ちょっと人じゃなかったみたいなの。角を生やした笛上手な美青年。その為か母は狂死したし、娘であるわたしの周りにいる人はどんどんおかしくなっていった。驚いた? 幽霊も妖怪も化物も邪神も、本当に、身近にいるのよ」

 あり得ない、とはもう言えなかった。
 真友の雰囲気、美しさ、話術、気配、身の毛のよだつ犬の攻撃を軽々と避ける身軽さ、総じて人並み外れていた。彼女は、いっそ化け物であると納得する方が自然だった。

真友は続ける。

「そんなだから、人間の友達なんてできないの。でも、千帆ちゃんはわたしと同じ、異界の欠片を宿す者。他の人よりも異界を受け入れる度量が広いから、きっと仲良くなれるわ。ね、この先も助けてあげるから、お友達になりましょう?」

 その声は、同族を手に入れた喜色に満ちていた。

 慄然とした。
 千帆は、猟犬を具現化させるためだけに千帆を恐怖させ、人を殺させた女と同じものなのだ。
 膨大な知識により千帆を翻弄し、犬に貶め首輪をはめた彼女と。

 千帆は先祖から血に潜む神を継承した。
 千帆の魂はもともと正常ではなかった。

 小窓が開けば、千帆は生まれつき尖った心から、無限に猟犬を汲み出すのだろう。
 心臓を脈打たせる限り、先祖より賜った鋭角の歪みに、犬は惹かれて尾を振り吠える。

 千帆は人を超えた人に助けられた。
 千帆は強く、美しく、忌まわしいモノと縁を結んでしまったのだ。

「大丈夫! これから犬神を使役するにあたって不安だろうけど、犬神の飼い方も躾け方も教えてあげる。せっかくのお友達ですもの。悪いようにはしないわ」

 震える千帆の様を勘違いしたのか、自分が首輪を嵌めた相手との友情を謳う狂った彼女に、半ば諦めつつ聞いてみる。

「猟犬を消すことは、できないんですか?」

「やぁだ、千帆ちゃんったら、」

 真友は冗談だと捉えたのか笑い飛ばして、言い聞かせるようにゆっくりと囁いた。

「犬を無責任に捨てるのは良くないわ。までちゃあんと、お世話しないと」

 決して逃げられないという絶望に、体から力が抜ける。

 人を何人も殺めてしまった千帆は、もう元には戻れない。
 今見捨てられたら、振り出しに戻る。暴れる犬は、今度こそ千帆の大切な人を殺すだろう。
 そうならないように、飼い主にかしずき、首輪を付けられながら、犬神を手懐けていくしかない。
 彼女の手で、小窓に枷を、首輪はめられた。それは、自分の魂を握られたに等しいのだ。

 千帆は、現代に蘇りし犬神持ちだった。
 千帆は猟犬の群れを率いる、真友に飼われた犬なのだった。

「これからも、末永く、よろしくね」

 観念して涙を溢す千帆を、子犬のように撫で、首輪を愛しげになぞりながら、真友は、愛玩物への甘い笑顔を彼女に向けた。

 ぐゎん。

 その時、千帆の胸の内から鳴り響いた一声。

 真友と千帆にしか聞こえないであろうそれは、犬が愛想よく、主人に返事をしたかのようだった。



#創作大賞2024 #ホラー小説部門

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