スイ

なんとなく生きてる。

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なんとなく生きてる。

最近の記事

”生きること”を他人に望むとそれは呪いとなる。

 多くの人は誰か大切な人やお世話になった人が病気などで死に直面しているとき、「死なないで」と一度くらいは望んだことがあるのではないだろうか。  病気による死と事故等の他者による死、そして自らによる死。死に方はざっくりこのくらいだと思っている。この中で”生きること”を望まれた側が苦しくならないものはないのではなかろうか。  病気でも治療が苦しかったり、治療法がない、障害が残るなど生きることが辛いと感じることはあるだろう。事故も同様だろう。そして自らが死を望んでいる場合。これに

    • 上を向くのも前を見るのも辛いから

       ふとした瞬間に心が打ち砕かれていることを認識することがある。  それはキラキラした生活を送っている同級生のSNSを見たときかもしれないし、弱い自分が前面に出てきたときかもしれない。はたまた、ただ時間だけがあり思考が暴走しているときかもしれない。  八方塞がりなことを認識して絶望する瞬間なんて大抵些細なくだらないことをきっかけに気づかされるものだ。前を向くことも上を向くことも苦しくてただ立ちすくむことしかできない。そして足元だけを見て前へ進む勇気もない。そんな日常が繰り返さ

      • あの頃の自分と今の自分。

        どこか冷めたふりしたまま 諦めれず大人になってた あいも変わらず生きる意味とやらを 探して歩いているよ あのころとは違う空を見ているけど 何も変われなかったあの日の僕が 何も捨てられずにここにいる 22/Hakubi(一部抜粋) https://www.youtube.com/watch?v=6MqNkv2l2VQ  何かを必死で追い求めるこも昔は持っていたであろう何かへの情熱も気が付けば無くなっていた。なりたかった自分も分からないままにその場しのぎで毎日を生きていく。

        • 正論は正しけれど救わない

           最近の世の中をネットを中心に生きているとどうしても正論を振りかざしたくなってしまう。その方面は現実の問題だったりネット上での出来事だったりさまざまである。  個人的には正論をネット上で振り回しても誰も得しないどころかマイナスな気分になって損をすると思っているので、大抵はTwitterのように誰の目にもすぐ触れる場所ではなくnoteであったりブログであったりとワンアクション必要な場所に書き綴る。そうして自己満足しているわけだが、読み返して消すことも多々ある。結局はその時の感

          自分を蔑ろにした先にあるもの

           世界的に見てどうかは分からないけれど、日本には自分を大切にするということをしない・できなくいて、その結果、体調を大きく崩してしまったり、とても多くのものを失ってしまったりと破滅している多くいる気がする。そういう私自身が自分を大切にできない・しようとしない人間であると思っている。  自分自身を大切にしていないというのは、だいたい後から気づく。一日の終わりに眠る前に行われる独り反省会なるものの中で「あぁ、あれは破滅的言動だった」とか「自暴自棄な行動だった」とかよく思うのだ。そ

          自分を蔑ろにした先にあるもの

          誰かを大切に想うということ

           人は誰かを大切に想っている気がする。口では誰のことも想ってないとか言う人もいるけれど、家族であったり恋人、友人誰かしらを1人以上大切に想っている。少なくとも私は誰のことも大切に想っていない人に会ったことはないと感じている。  たぶん人は独りでは生きていけない。心のどこか、それは奥底の方かもしれないし、遠く離れた片隅かもしれないけれど誰かが居る。その誰かが居るから生きているし自分が自分でいられる。  大切に想う誰かが居なければ何も悩むことはないと思う。物事を直視して立ち止

          誰かを大切に想うということ

          大人になって気づいたこと

           ”Hakubi”というバンドに『大人になって気づいたこと』という曲がある。この曲は守られて何も知らなかった自分と成長して大人になって知ったこと、そして大人になりきれない自分自身の葛藤が描かれている。  自分自身の選択が正しいのか間違っていないかと不安になり、誰かに正解だと認めてもらいたくなる。そして、どれだけ頑張っても満たされることなく一日が終わり、何かを許すこともできない。  大人になるというのはどうしてこうも苦しいのだろうか。子供のころ憧れた大人はこんなに苦しくなか

          大人になって気づいたこと