饒舌とパッション

自宅療養32日目。4:40起床。ドラマ『Believe』第4話を観る。木村拓哉の軽めの演技と、他のキャストのシリアスな演技がチグハグな気がする。うまくハマる場合にはすごく効果的なんだけど、この回ではあまり。ストーリー展開もご都合主義で少し残念な回だった。ラストシーンでは田中哲司に拾われていたが、先の展開はどうなるのだろう。

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Twitterを眺めていたら、何となく坂本龍一の音楽を聴きたくなった。懐かしさもあってスイッチが入り、プレイリストを作成する。クラシカルからテクノ的な作品まで、坂本龍一は坂本龍一でしかなく、他にアーティストが思いつかない。

『OPUS』という曲はサティっぽさがあるなと思うが、逆にサティが坂本龍一っぽいと言いたくなる。確固たる存在感。本当に久しぶりに聞いたアルバム『ビューティー』も名曲揃いで嬉しくなった。

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昨日の反省を受け、室内の移動はなるべく歩くことにする。今まではキャスター付きの椅子に座って、足で床を蹴って進んでいた。小さな痛みを自ら発生させ、未来の痛みに鈍感になること。

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さらけ出してない。引きずり出してない。この日記を書こうと決めた時に、全てをさらけ出してみようと決めたはず。意識的、無意識的に隠していること、それは何か。透明なインクで書かれた見えない告白に色をつけること。

わたしがヘンリーから学んだのは、メモをとること、広がりをもつこと、人知れずもの想いに耽るのでなく、動くこと、毎日書くこと、行動すること、瞑想するのでなく言葉にすること、感情に押し潰されて自分がこわれても、それを隠さないことだ。
彼はわたしのとてつもない強さを呼び覚ます。わたしは彼にあらがって書き、彼とともに書く。彼にあらがって生き、彼とともに生きる。彼の人生を意識する。それがわたしを豊かにしてくれる。
彼の手紙とその裏に書かれたメモ、旺盛な活動が、ぬくもりと熱の感覚をくれるのが好きだーー広がり、豊かさ、満ちてる感覚。あれ以上、からっぽの世界で生きることはできなかった。たくさん愛し、たくさん憎み、たくさん格闘しなければ。いまは心からしあわせだ。もう、自分のらまわりに空虚さを感じることもない。

アナイスニンの日記は強烈だ。饒舌とパッションに満ちていて、血が激流のごとく流れている。自分がいま獲得せねばならないものは饒舌だったのだ。シリアスを吹き飛ばし諦念を置き去りにするスピードの言葉のスコールをまくし立てること。

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ふだんこれらのトラウマ記憶は、心の別室に凍結保存されており、自身の生活史記憶から弾かれ、『なかったこと』にされている。ところが、たとえば入院などして安全な環境に身を置くと、その安堵感のせいか気が緩み、心の別室の扉が開き、記憶の解凍が始まってしまうのだ。

『誰がために医師はいる』(松本俊彦)を読む。自分にもトラウマがある、と思っている。暴力的なものと性的なもの。度合いで言えば死に直結することはないレベルかと思っているが、体験時の年齢が若いため、トラウマとして認識している。

このトラウマ『なかったこと』が安堵をきっかけに解凍されてしまうのは本当だろうか。自分の場合は、似たような出来事に近づいた時に思い出す。もちろん意識に上がったとてすぐに締め出す。年月も経っていて悪の効果も薄れているので。

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本棚に収納できない本をどうにかしたいと思っていたが、無事に解決。普段3つ折りのマットレスに寝ているが、その横、床に直接並べてしまえばいいことに気づいた。寝ている最中にたまたま本に触れたら、その時見ている夢に何かしらの作用を及ぼしてくれるだろう。



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