夜よ負けるなよ

わたしたちはみんな、ぴんと引き伸ばされて薄くなり、震え、振動し、いつでも神経を張りつめている。"恐怖政治"と、むかしは呼んだものだが、実際に恐怖が世を治めるわけではない。恐怖は人々を麻痺させるのだ。ゆえに、不自然な静穏がおとずれる。

マーガレット・アトウッド「請願」


2024.8.20。自宅療養128日目。6:00起床。季節の手触り、街の風景の変化、日常の雑事、外気への反応、路地での小さな発見。日々の肌理を味わうには精神が鈍感すぎて役に立たない。何かをしようと思い巡らすときに、まずお金がいくらかかるか計算するのは普通だろうが、お金を使わないと決めると、途端に選択肢が狭まってしまう。お金を使うということは、誰かの、何かのサービスを受けたり、モノを手に入れることだ。つまり、人生のほとんどは、人が用意したものを手に入れて生きている。それが何だと言われればそうかもしれないが、何だか釈然としない。答えはないのだけれど。

来週から仕事に復帰しようと決める。いきなり全開は無理なので、まずは週に3日程。いよいよ日常が戻ってくる。仕事場の人たちの顔が浮かぶ。みんな元気にやっているだろうか。とにかく迷惑をかけないよう、気を抜かず頑張りたい。

物価が上がり、税金も上がり、なぜか光熱費も上がり、怒りのボルテージも上がり、政治家の実入りも上がり、知事の言い訳の回数に記者の温度も上がり、暑さで死ぬ人の数も上がり、社会にうっすらと漂う諦念がいよいよステージに上がる。

オリーブオイルの値段だけでもどうにかならないだろうか。

若い頃は、生とは?死とは?なんて重いトピックについて真剣に考えていた。本を読む喜びを知ったせいもあって、自分の身近で起きていることよりも、大きなくくりでの概念の方に興味があった。おそらく背伸びして読んでいた様々な哲学書によるところが大きい。歳を重ねたいまは逆に、日々の中に漂う幸福度とか、何に美しさを見出すかなど、半径数メートルに収まることに興味がある。すなわち、自分の頭の中にあるミクロコスモス次第というような。

よくよく考えれば、動物は、とにかくよく舐める。自分のパーツも仲間の体も。触れたりくっついたりも始終行っている。人間はその真逆を突き進む。良くも悪くもインディビジュアルへ向かう。個々に機器を携え、耳を塞ぎ、口を覆う。もう数年したら目も覆うことになるだろうか。現実世界の上に指示が流れ、映像が重なり、ナビゲートする。動くから動かされるへ、歩くから歩かされるへ。私はこうしたい、から、私はどうすればいい?教えて…

夜にはいつも救いがある。事物がはっきり見えなくなり、見たいものだけに光をあて、妄想のなかに沈んでいける。(鈴木いづみ)

40歳を過ぎてから朝型に変わった。とくに努力したわけでもなく自然に。おそらく前職を辞めてから海の近くに引っ越したからだろう。自然の魅力は主に日中しか味わえない。闇の中では人と同じく自然も眠りについている。精神的に不安定な人は、夜が、闇がノイズを閉ざすため、不安定なまま自分の内に入り込んで、不安を増幅させてしまう可能性がある。作り手やアーティストは、夜の力を借りて、自分の世界に没入することで、凄みのある作品を生み出すことができるかもしれない。

矛盾するようだが、何だか、今の自分には夜が足りないような気がする。イエモンの『パール』の歌詞を曲解して、夜よ負けるなよ、朝に負けるなよ、何も答えが、出てないじゃないか、と口ずさんでみる。



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