心のセーフティネット

『さあ、ここに私のからだと、私のあたたかさと、私の愛情があるのよ。これはみんな、私ひとりでは役に立たないものなの。』

フランソワーズ・サガン


2024.9.22。雨、仕事。薄くなった頭髪が雨の水分を吸ってしなり始める。スーパーハードのスプレーも何のその。早朝に立ち上げた努力も虚しく、出勤直後には美しい開脚のようにペタンと体が地面にくっついているのと同じ状況だ。いっそボウズにしてしまえばいい。自分の若い頃とは違ってオシャレボウズも存在する。太めのセルフレームに変えて、クリエイター気取りでイメチェンでもすればいい。

髪型っていうのは大抵が自意識過剰な細部にこだわるが、側から見たら大差ない。パートナーがいる時に何度も聞いた。『今日髪型ダメじゃない?』「いや、いつもとおんなじだよ。」『嘘でしょ?全然違くない?前髪の立ち上がりとか。』「いーやおんなじです。つーかジジイが何かっこつけてんのよw」『あんただっていけてる男が横にいた方がいいでしょ!』「いや、だ、か、ら!おんなじなの!自意識過剰すぎ!」でしょぼんとして、の繰り返しだったな。

誰かいい人がいるんでしょ?そう職場の喫煙所で聞かれて、いやいないよ、いい人いたら紹介してよwという軽口をたたく。よく考えなくとも、歳を重ねるにつれ、ひとつの性としての魅力がだだ下がる。圏外、欄外、埒外。そしてそれに変わる自己承認が見つからない。

モテたいわけでもコマしたいわけでもなく、ただ一つの性として、異性を惹きつけるという機会がゼロに近いことに戸惑っている。つまりはこの歳になっても、きちんと恋愛感情を持ち、相手からも同じように好かれ、お互いに欲情する瞬間があり、暖かく柔らかな気持ちでもって、互いを包み込むような関係を築きたいという欲望がまだある。

大久保公園の脇を斜めに睥睨しながら闊歩し、打算とお得のジャブを打ち合いながら金を介したインスタントな快楽でその場を劇場に変えるのではなく、地味ながらも、小さな約束とともに、一緒に生活を運営していきたい。

ああ、酒の力で本心がダダもれていく。なぜ自分は開陳したいのだろう。恥ずかしげもなく弱さを披露するのか。

フランソワーズ・サガンは言う。『さあ、ここに私のからだと、私のあたたかさと、私の愛情があるのよ。これはみんな、私ひとりでは役に立たないものなの。』

このフレーズを知ったとき、ああこれは男性からは絶対に出てこないセリフだと思った。自分を差し出すような気配に満ちているが、『私が』包み込むという能動的な決意が見えて、どこまでもかっこいい。自分を開いて、堂々と欲望を肯定すること。勝手にそんな意味を見出して勇気づけられている。

休みの日のドトールでこれを書いている最中に友達からランチの誘いがくる。もう30年来の友人で、数年に一度くらいのペースで会っている。怪我した時、会社以外の誰にも連絡をしなかったが、彼女には連絡を入れた。相手はどう思っているかわからないが、自分にとってはかけがえのない特別な友人だ。

冴えない一人の中年が短期間に多くの失敗を積み重ねている最中にダメ押しで降りかかった怪我。食いしばる最後の歯が崩れ落ちたあの瞬間から心の支えになってくれた。

雨宮まみ『40歳がくる!』を読んでいたらこんな記述があった。パートナーから距離を置きたいと言われ、深く傷ついて精神的に不安定になる。友人たちに助けてもらい、酒を飲む日々。心はぐしゃぐしゃだが楽しい時間も過ごす。そして人生で最大の量を飲んで気持ち良くなって音楽を聴いて、ふと『今なら飛び降りられるな』と思った後の記述。

そうしてもいいと本気で思った。けど、四十前でこんなことが起きるんだったら、人生ってどんだけむちゃくちゃなんだろうか。もっと、もっと、気持ち良くて、死ぬほど楽しくて、死ぬほど傷つくことが、この先には待っているんじゃないだろうか。もう耐えられないというほど傷ついても、私はなんだかそのことが、とても面白そうに思えてしまった。どうせズタボロなら、もっとめちゃくちゃになってしまえばいい。自分のモラルや理性や大事にしてきたものが全部壊れてしまうくらいの嵐に巻き込まれてしまえばいい。そして、不思議とそのことは怖くはなくて、少しだけ楽しみなことのように思えたのだった。

私は、嵐が見たい。次の嵐が見たい。

自分の日記に励まされる事がある。書いている内容や表現や行動を顧みて『まだまだやれそうじゃん?』とエールをもらえたような気分になる。本の引用を多くしているのも、真っ直ぐに堕ちようとする心に歯止めをかけるためだろうか。自分の無意識が、自分の心を支えるために仕掛けたセーフティネットのような。


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