晒す、薄める
わたしに限らず、子どもというのは、自分のまわりに起きることを、ただ見つづけるしかない。大人たちの諍うさまを、ほかの子どもが理不尽にあつかわれるさまを、自分を守ってくれるはずの大人が怯えたり、あたふたするさまを、大切なだれかが恐ろしい目に遭ったり傷つくさまを、ただ息をつめて見ているしかない。諍いをやめさせたくても、まちがいを正したくても、自分にはその力はない。だれかを守りたくても、守る力はない。かといって、立ち去る力も行く場所もなく、ただそこにいつづけるしかない。だから目を凝らして見ているしかない。ふすまの陰から、車の後部座席から、教室の隅のほうから。
2024.8.21。自宅療養129日目。5:15起床。昨日投稿した日記の前にひとつ書いた記事があって、それは他人が出てくる極個人的な記録だった。公開したところで理解も共感もされないだろうし、出してもたいした反応はないだろうから出しちゃおうかなと思ったのだが、ギリギリで思い留まった。多分、人には、心の奥底で眠らせておいたほうがいい体験がある。ふとした弾みに浮上してくるのだが、その誘惑に負けてはいけない。おそらくその記憶を、人目に晒すという形で解放したいのだろう。晒して薄めて自分が抱える負荷を減らしたい、ということ。その人にしてしまったことと、その人にされたこと。それは等価ではなく、お互いが、『された』に比重を置き、強く記憶しているはずだ。被害と快楽の狭間で傷ばかりが増えていった記憶。しかしだ、少しの痛みとともに抱えていくこともまた人生なのだろうと思う。時々思い出しては、その痛みを追体験しなければならない。
模様替えした部屋のレイアウトが気に入らないが、自分の想像力には限界があっていい案を思いつかない。全く伝わらないだろうが、R.E.Mの音楽から受ける、そこはかとない寂しさや孤独感の心地よさ。閉じているようで閉じていない扉の、その先の景色。そんな感じがベストなのだ。孤独を心地よく感じさせながらも、外に向かって余白を持っているような部屋。自分でも何言ってるのかわからないが、そんな空気感がほしい。
街中の喧騒を離れるため、隣駅へ。国道沿いに立ち並ぶチェーン店の赤と黄色を基調としたギラついた看板。見慣れた光景への雑な感情と少しの安心感。ひたすら真っ直ぐ進めば道は細くなり、緑が幅をきかすエリアに突入し、やがては湖に達する。そのまま湖に沿って反対側、逃げるように山を下れば、行ったことのない県に到達する。時々、道が地続きになっていることを忘れる。ただ進めばいつの間にか自分を振り切れることも忘れている。夏休みを利用して高校生が原付でひた走るあの感じ。自分の知る生活圏を越えていく時のブルっとした緊張感。そんなことを思いながら客のほとんどいないチェーンのカフェを独り占めして本を読む。
シーグリッド・ヌーネス『友だち』を少し読む。何となく開いたページにこんな記述がある。
わたしが学んだのは、シモーヌ・ヴェイユの言ったとおり、《想像上の悪はロマンティックで、変化に富んでいるが、現実の悪は陰気で、単調で、不毛で、退屈だ〉ということだった。
人生の真理を知りたいのか、描写に唸らせられたいのか、文章を鏡にして見えない自分の感情を引き出したいのか。本を読む動機は様々あるが、なぜ上の文章に感じ入ったのか不明だ。不明だということのみを手がかりにして、また別の本を開く。言葉が厄介なのは、簡単に求めてしまえること。合う合わないのジャッジが簡単なこと。100%個人的な眼差しで突き刺すことができることだ。
宮藤官九郎『新宿野戦病院』を観る。回を追うごとに、社会的な問題やトピックがどんどんミックスされて、同時に同じ場所に存在している。性別不適合に悩む看護師の回が終われば、もう彼女は普通にそこにいる。腹違いである姉妹の確執の回が終われば、『よう!(肌の)白いねえちゃん!』と普通に妹が姉に声をかけている。毒親と縁を切った少女も当たり前にそこにいる。クドカンが提出する祝祭的なドンチャン騒ぎは、弱者を包括している。細かい対話を通じて、だんだんと理解し合うのではない。意見や環境の違いをまるっと認めて、同じ場所に存在させること。何だかアドラー心理学みたいだ。
モラトリアム期間も残り数日。復帰の準備を進めていこう。