私は生まれなおしている

自宅療養40日目。6:30起床。寝覚めはよくない。いくつか夢を見た手触りはあるが、全く覚えていない。空は曇天。革の手帳を磨く。クリームを塗って、布でゆっくりとなでていく。乾いた肌に潤いを与え、健康的にエイジングを重ねられるように。静かな月曜日の始まり。

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これはね!自分を自分の子供に見立てるのがいいです!面倒でも愛する我が子のためならあったかいご飯を用意する。歯磨きイヤって言われても虫歯にならないよう磨きなさい!っていうけど意地悪してくる友達の誘いは断っていいよっていう。怠けはネグレクト。自分が自分の毒親じゃないか?って考える。

私は私のことを「理想の娘じゃない」と虐めぬいてきたなあーと最近思う。ジャンクフードを過食嘔吐して自分がいかにダメで価値のない人間かを常に自分に言い聞かせてゴミ屋敷でボロボロの布団も買い換えてやらないで、どうやって死ぬかばっかり考えてた。可哀想なことをしたし、取り戻せないなと思う。

自分自身だといくらでも手を抜けるし粗末にできてしまうんだけど、そこから一歩ひいたメタ視点で自分のことを「尊重されるべきひとりの人間」として見てあげると、雑な扱いをすることにためらいを感じたりできるようになりますよん。

Twitterで見かけた言葉。自分のインナーチャイルドをどうやってケアしていくかという話。自分に子供はいないが、伝えたいことは理解できる。

トラウマケアは今までいろいろ試してきた。ほぼ独学だがあらゆる本を読んで実践してきた。その結果はあったと思う。年齢を重ねた経験値もあるが、とにかく他責思考(全てが敵)が薄まって、ある程度フラットにものを見ることができている。

自分に足りないのは、過去の幼い自分への癒しである。ここがずっと課題だった。インナーチャイルドの存在そのものへの認識が薄く、それを癒すという、何だかこそばゆい感覚もあって、あまり力を注いでこなかったというか。NLPのテクニックなどを利用して、何とか現実をサバイブしてきた。

今回上の言葉に引っかかったのは、『怠けはネグレクト。自分が自分の毒親だと考える。』というフレーズ。思わずエウレカ!と叫びそうになった。

自分を癒すこと

自分の嫌なことをしないこと

面倒なことも『嫌なこと』認定

結果サボってしまう

日常生活でやるべきことがおろそかに、後回しになる。例えば歯を磨く頻度、ゴミ捨て、洗濯、シーツの交換、あらゆる清掃、手をかけた食事など。

結果ただの怠けになっている

いままではこんな感じだろうか。芸術関係が好きだから、自分のお気に入りを並べたり、飾り付けたり、そこに知恵と手数ばかり割いていた。日常生活のことも最低限はやるのでそこまでひどくはない。汚部屋でもない。

女性がくれば、男の人なのにキレイにしてるじゃーん、くらいは言ってくれる。だが、細かく見ると全然なってない。つまりは好きな芸術で自分を喜ばせる以外のことで自分を尊重して大切に扱うことをしなかったのだ。仕事も含め。

だから『怠けはネグレクト』『自分は毒親認定』には衝撃を受けた。朝からすごいもの見たという驚き。そしてこのフレーズを目撃しただけでも、インナーチャイルドへの癒しがもう始まったと確信できた。いままで『怠け』と『癒し』の区別がつかなくて、そこで止まっていた。

同じテーマの解説でも、違う言葉で説明されると一気に理解できることがある。どんなジャンルでも。もはや感動レベルの理解がここにある。ありがとう。

しかしTwitterで新しいものの見方や参考になる考え方を知ったとき、『知った』ではなく『見た』と表現したくなるのはなぜだろう。自分だけかな。タイムラインが流れていく中、咄嗟に目撃したということか。走っている車の運転席に芸能人がいたような、一瞬の、見逃さなかったぜ!という感じに似て。

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昨日は調子よかったが、足の痛みが復活していたらどうしようと心配していた。起きがけにゆっくり動かし、軽くもみほぐし、ゆっくり立ち上がる。問題ない。ついでそろそろと歩いてみる。大丈夫。昨日と同じ痛み具合。後退はしていない。

左足に全体重をかけられないから、右足を一歩踏み出すときには、ひきづるように高速で前に出す。左足に体重がかかっている時間を極力短くしたいからだ。室内を歩く。3歩5歩7歩。まだまだいびつな歩き方だ。体は斜めに傾き、手でバランスをとりながら荷重の分散をするから当然だ。痛々しくて見てられない歩き方。それでも痛みを我慢できて、杖無しで歩ける歩数が増えている。

50を過ぎて怪我をしたこの体は、まだ生きようとしている。遅いペースでも治癒に向かっている。あまり擬人化するのもどうかと思うが、日々自分の体を細かく観察していると、この過程を美しいとさえ思えてくる。人体の治癒力と医療の技術の融合。たかが骨折で大げさなのはわかっているが本当にそう思う。

憎しみしか無い自分の父親、彼は足の怪我から死に至った。転倒し骨折、頭も強く打って少し後遺症が残ったそうだ。そこから足が壊死し、結果切断、それでもしばらくして悪い菌が全身に回り死んだと人づてに聞いた。

だから自分が骨折して救急車で運ばれている時、もう終わったと思った。自分の血を呪った。なぜ死んでまでまだ俺を苦しめるのかと。俺も壊死と切断なのか?なんだこれは?いままで大きな怪我もなく、病院は歯医者しか行ったことがなかった。なのになぜ?この歳で?転職して2か月経ちさあこれから!という時に? あとあとその思いは払拭されるのだが、その時は焦りと絶望感しか無かったのだ。

そんな経緯もあり、自分の体が復活していくことは、単なる治癒ではなく、憎き父親との本当の決別も含んでいる。わたしと彼は違う。わたしは治癒に向かっている。あなたはそれが叶わず死んだ。死者への冒涜は理解している。だからもう話さない、心に想起することすらないだろう。封印ではなく消しさる。遺灰を海にまくように。さようなら。

『私は生まれなおしている』とはスーザン・ソンタグの日記のタイトルだが、自分もまた、今回の怪我で生まれなおすことになるだろう。最後に、もう一度。そんな事を思いながら日々リハビリに励んでいる。

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ドラッグストアに買い出しに行く。足の具合は引き続き好調で、痛みが軽減されている。だから調子に乗る。ワインを1本だけ買う。チーズとおつまみも。でも他のお酒は買わないし、抑えとか、エンジンかけるためのスターターとしてのお酒も買わない。あくまで喜びの一本だけ。日常に変化を、自我に解放を。


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