自立は、依存先を増やすこと。希望は、絶望を分かち合うこと。

自宅療養35日目。4:50起床。少しづつ、本当に少しづつだが、足の荷重時痛が和らいできた。とはいえ昨日まで痛かった部分は平気になったが、代わりに他の場所が痛む。痛みの発信基地が移動しただけとも言える。発信される電波は少し弱くなっているようだが。こうやって移動しながら、足全体が慣れていくのだろう。引き続きリハビリを頑張っていきたい。

今日のノルマは郵便局に行くこと。書類を2通郵送しなければならない。この前勢いで行った図書館のすぐ近くだ。あの時の地獄を繰り返さない為に、松葉杖は2本使うことにする。それでも遠出を考えると辛さしかない。

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『自立は、依存先を増やすこと。希望は、絶望を分かち合うこと』
 それを見て、『そうか』と思わずつぶやいた。私は今日、自分の絶望を彼女に少しづつ手渡していった。だからだんだんと、胸のあたりが軽くなっていったように感じたのだ。
 依存も、絶望の共有も、距離の近い限られた人としかできないことだと思っていた。でも、もしかしたらそうじゃないかもしれない。顔も名前も明かしていない初対面の相手でも、そういうことができるのかもしれない。

土門蘭『死ぬまで生きる日記』を開く。もう20年以上、死への欲望を抱えた著者のカウンセリング日記。元々はブログの連載だったが、Tver方式だったので、忘れると読めなくなる。だから本になったのが嬉しい。

発売は1年前ですぐに購入した。すぐに読まなかったのは、これが大切な本になることがわかっていたから丸ごとの自分が要求するまで待っていた。それが今日のようだ。

依存も絶望も、言葉として重い感じがする。他に表現できる言葉はないかと考える。いくつか思いついたが、いずれもしっくりとこない。

『もっと頼っていい。もっと話を聴いてもらっていい。自立し、希望を持つために。』などと言葉を柔らかく翻訳してみる。

そうすると少し広がりが出る。土門さんの言う通り、距離が近い限られた人でなくとも、頼ったり話を聴いてもらったりできるような気がしてくる。まだ始まりの数ページだが、いきなり核心を突くフレーズを目にして嬉しくなった。ゆっくり読み進めていきたい。

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食料が無くなったので、コンビニとドラッグストアへ。5分の距離に2店舗並んでいる。怪我をした身としては本当に助かる。1年前に越してきたが、この部屋を選んだ自分を褒めたい。そして意気揚々と出かけたが、やはり足の痛みが気になる。帰ってベッドに横になってもまだジンジンと違和感がある。丁寧にマッサージして、郵便局はあきらめる。

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怠惰な日常が流れていくが、焦ってもしょうがない。でも落ち着かない。やはり仕事をしてないと社会から弾かれている感覚がある。誰の役にも立っていない。でも定年は来るし、働かず年金暮らしの人もたくさんいる。その人たちは誰の役にも立っていないのか?そんなことは無い。自分のことは厳しめにジャッジしてしまうのはなぜだ。特に行動に関してではなく存在については。

様々な環境や条件のもとで人は生きている。本来ただ生きているだけでいいはずなのに、それだけでは不安なのは、働かざる者食うべからず、という考えが染みついているせいか。

考えているとつい主語が大きくなってしまい思考が止まる。社会をつぶさに観察しながら、『わたし』の物語を生きること。小さな視点で見えることを大切にして、考えを積み重ねていくこと。今の自分にはそれが必要だろうか。


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