予測不能な老い
自宅療養108日目。7:00起床。通院日なので早速支度にかかる。もう4か月近く好きに寝て起きるの繰り返しなので、早朝から予定があるのは嬉しく、慌しい感じも新鮮だ。人の流れに乗って歩き、バス停で待ち、手持ち無沙汰な時間をスマホで埋める。これが普通なのだよなぁと通院のたびに思う。汗が吹き出るエネルギーを電気化してスマホの充電ができればすごいのに、などと妄想する。パッチを手首あたりに装着し、パッチから延びたケーブルを直接スマホに差し込み充電する。汗は無理でも、せめて手首の脈の動きから発電できないだろうか。もしくは靴の中敷きにシステムが植え込んであり、歩くごとに発電するとか。
手術痕の傷はだいぶ塞がったが、まだ油断できないからもう少し診察を続けたいとのこと。こちらもリハビリには通いたいので問題なくOKする。先生が恐れている感染症というものがわからない。バイ菌が体内に入ることを指しているのだろうが、実感としてその怖さを測れない。とにかく言う通りにする。
リハビリもあと一歩のところまできているが、やはり復職はまだ先とのこと。自分も同意見。この一週間はとにかく筋トレに費やして、ふくらはぎもだいぶ回復したが、太腿とお尻が圧倒的に足りない。片足で立つのもやっとの状態だが、そのままスクワットできるくらいにならないと。足首への負担は抑えながら、両足スクワットの回数を増やしていこう。
過去で一番スムーズに診察、リハビリ、会計を終えて、1時間に1本のバスに初めて間に合った。とは言え8時に家を出てバスで駅に着くのは11時、トータル3時間はかかる。お年寄りが病院に行くのは一日仕事みたいなもん、というのもわかる。
バスを途中で降りて、ブックオフで本を2冊買う。前に買うのをやめた本がやはり欲しくなった。衝動的にもう一冊買う。ビジネス書なんか買うのはいつ振りだろう?と思いながらも、今日これをかったのは仕事復帰が見えてきたから準備せよとの無意識の合図だろうか。とにかくモードチェンジしなさいよみたいな。今のダラダラに慣れた頭と身体で職場に行っても使い物にならないから、せめて企業の興亡記でも読んで、準備とかスピード感、大小様々なトラブル、コミュニケーション齟齬、裏切り、予定外、青天の霹靂なんかが慌ただしく迫りくる「仕事」というものの認識を再定義しておきなさいとばかりに。
そのまま八百屋で野菜を買い、普段行くのとは別のスーパーでドレッシングを買う。東急のスーパーは特にお年寄りが多い。平日昼間なので特に。自分も含めて、このまま高齢化が進んでいくと、社会全体がスローな動きに合わせていかなければならない。
レジにかかる時間がとてつもなく長かった。決して責めるわけではなく、もうそういうものだとして、別の対策が必要だと思う。
スーパーなら無人レジ、各窓口では案内人。既に導入はされているが、もっとリソースが必要となり、それは大きな負担となりそうだ。人間が関わるので物事が複雑化したり、かえって非効率的になったりする可能性もある。この辺の切り分けを各企業がどう進めていくのか楽しみに待つことにする。
自分の場合は、自分のせいで列の進みが遅くなるのが嫌だから、順番が迫ってきたら財布を持ち、大体の金額を見て、すぐにお金が取り出せるよう準備している。ただこれも、今の年齢だからできることであって、5年後にはどうなるかわからない。自分の未来の動きが予測不能になること。迷惑かけないように、という気持ちを持たぬまま並んだ時点でもうアウトなのだ。
宮藤官九郎『新宿野戦病院』を観る。毎週の楽しみ。しかもかなりの。見終わった瞬間からもう待ち通しくてしょうがない。聖と悪、持つものと持たざる者、加害者と被害者、理想と諦念、本音と建前、集団と孤立、過去と未来。極と極の間全てを、命は平等であるという一点で包括する。生きてる奴全員対象!みたいなフラット感があるからこそ社会の病理を炙り出しやすいのだよな。クドカンは集団を一つの家族みたいに描くのが上手い。それぞれが当たり前に生きてるだけでトラブルなんていくらでもあるっしょ、それ書いてるだけ、みたいな。わちゃわちゃしたノリをエンジンにして笑いながら進む物語は、変にシリアスぶった作品よりはるかに心に響く。なぜかドラマを観たあとにはソウルフラワーユニオンが聴きたくなるのよね。不思議と。
踊っていこう
何もホラにげないから
そしてブラッといこう
地平線はそこにあるから
ソウルフラワーユニオン「ホライズンマーチ」