体からの悲鳴

誰も価値を分からないけれど、自分だけはそれを手づくりしてニンマリしてしまうような体験。それが現代社会の外部にいったん立つということなのです。

青木真兵「武器としての土着思考」


2024.8.29。復帰して数日、やはりフルタイムで働くのはハードで、仕事が終わるとグッタリして何もできなかった。久しぶりの日記になる。特に2日続けて出勤した日がひどかった。帰りの最寄駅でついに一歩も動けなくなった。足は何とかもったが、腰がヤバすぎた。100kgの重りが下半身についてるのかと思うくらいに全く動かない。おそらく一日中足をかばって動いていたので、全ての負荷が腰にきたのだろう。この歳まで腰痛もなく、自分は大丈夫な部類だなとたかを括っていたが、そんな事はなかった。手すりに全体重をあずけ、一歩一歩、亀の速度で進む。進むというか、腕の力だけで下半身を引きずっているという感じだ。目の前のドトールまでは20mほどだが、10分以上かかったと思う。オーダー前に腰を下ろして、店員に事情を話しそのまま30分ほど休ませてもらう。オーダーをすませてさらに30分。ようやく回復して何とか帰宅できた。やはり職場では気が張っていたのだろうな。緊張がほぐれて、一気に疲れが押し寄せてきた。復帰の嬉しさで飛ばしすぎた。体調の上下を正直に伝えて、周りの助けを借りつつ、確実に体を慣らしていかなければ、余計に迷惑がかかってしまう。

積み上げては崩してまた積み上げる。そんな人生を過ごしている。この、崩すが曲者だ。なぜ崩さねばならないのか。仕事が調子に乗ってくれば辞め、この日常が幸せなんだなと思い始めればパートナーとの間に亀裂が入る。もう絶望だ、これが淵だ、と思ったこともある。しかし断崖絶壁の前で火を起こし、雨をしのぐ屋根を作り、新しい生活の芽を出したりする。人間というこのしぶとい存在。

昔の出来事について、そのとき思ったことと、あとから回想して思うことは、ずいぶん違います。一つには僕たちは過去の記憶を新しい出来事が起こるたびに「書き換え」しているからだと思います。記憶は文脈の中で生まれたり、消えたりする。あることを経験したせいで、「過去のあの出来事の意味がわかった」ということがあります。自分には「こういう面もあるな」と自己認識が少し改定されると、それまで忘れていた自分の過去の言動を思い出すことがあります。いままでは「自分らしくない」という理由で記憶の後景に退いていたものが、「自分らしさ」がヴァージョンアップしたせいで、前景化してきたのです。

内田樹・内田るんの親子による往復書簡を読む。記憶というのは本当に面白い。過去の記憶が現在の自分に作用することも多々あるし、記憶に助けられることもある。今日、この日記は111記事目で、時々読み直すと、なるほどなと思ったり、あんなに絶望していたのに、今の楽観的な気分はどうだと驚いたりする。読み直すことでさらに自分との対話も始まる。そしてさらに別の記憶が想起され、過去の記憶に新しい意味づけをしたりする。

ここ数日、本も読めていない。肉体と精神の底上げをして、読むこと、考えることを人生の主にしたい。経験、体験は、やがて体が衰えたらできなくなる。そのためにも、練習は早めにやっていきたい。

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