過去の私が敵になる
自宅療養50日目。4:30起床。怪我してからもうすぐ3ヶ月。救急車、入院、手術、退院と満身創痍の目まぐるしい日々が続いたが、治癒に向けて少しづつ落ち着いてきた気がする。無慈悲に時間だけが過ぎていくが、今回の怪我という『一旦停止』には何か意味があるのだろう。もし無いとしても、むりやり意味を考え出す必要がある。そうでもしないと心が持たない。
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今日は病院にてリハビリ。こちらの都合で一週飛ばしてもらったので久しぶり感がある。今まではタクシーで行っていたが、今日は初めて市バスで行った。普段バスに乗らないので気づかなかったが、タラップが低くなってて乗りやすかった。急な階段を登るイメージがらあったので構えていたが、杞憂に終わった。
いつも通り、まずはマッサージをしてもらう。ほぐした後は軽く筋トレをして、いよいよ歩く練習。家より歩きやすいのは何で?と質問したら、先にマッサージも筋トレをやって、筋肉を動かしておくことで準備ができるとのこと。起きがけに歩くとかなり辛いでしょ? と言われたがその通りだ。今後はまずマッサージ、ついで筋トレ。準備が整ってから一日を始めることにする。
ざっくりでいいから、いつから仕事に行けるか教えてくれと聞くが歯切れが悪い。自分の中ではあとひと月もあれば復帰できるかと思っていた。しかし、図書館行くだけでも厳しかったんでしょ?体使う仕事なら、まず8時間立ってられないとね。そこにいろんな動きが加わるから、体への負担は相当よね。わかると思うけど。と答えが返ってくる。
確かにそうだ。8時間の間、立ったり座ったり、持ち上げたり引っ張ったり、フロア移動の階段は30段じゃきかないし、時には小走りも必要だし、と考えると先生の言う通りだ。じゃあめちゃくちゃリハビリがうまくいったとして、2ヶ月くらいですかね? と聞くと、まあそんなもんかな。でも会社への報告が必要なんでしょ?ならば多めに伝えておきなよ。会社が知りたいのはおそらく完治の時期だろうから。と言われた。
関節の骨折だからタチが悪いのだ。しかも三果骨折だから、治癒の期間も3倍かかるみたい。ここから2ヶ月か、、、と天を仰ぐしかない。きつい。帰りに少しの贅沢で権兵衛のおにぎりを。サイドメニューも2品追加して。怪我した時に乗ってたロードバイクはもう撤去&処分されてしまった。失うものばかり。これで次のステージで高く飛べなかったら、ただ地べたを這いつくばっただけになってしまう。神の試練。
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「過去と和解するための哲学」(山内志朗)を読む。強度と勢いのある文章に夢中になる。初めて手に取る著者。30代の若手の准教授かなと思っていたが、奥付けの紹介を見ると60代後半の方で驚いた。何作か追いかけてみたい。
なぜいまの自分は不満足なのだろう。そう思うとき、過去に原因を探す。しかしもう遅い。何であのとき間違った選択をしたのかと悔いても、そのときはわからなかったのだ。メリットやデメリットを考えて慎重に選んだのか。もしくはそんなのどうでもいいと思い切って飛び出したのか。未来のことは未来の自分に任せたと思考を放棄したのか。いずれにせよ、そのときの自分は、いまの自分が振り返って過去の原因を特定するようには物事を考えられなかったのだ。
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「死刑に至る病」を観た。所々見たことがあるシーンがあったのは、BGM代わりに流していたことがあったのだろう。しかしなぜこの映画をBGMにしていたのかが理解できない。結構な胸クソ映画だった。悲鳴も多い。好きな監督だけに、なぜこの演出にしたのかと疑問が残る。
サイコパス、シリアルキラー、マッドサイエンティストが登場する映画やドラマが好きだ。しかしただ残虐であるとか、自己中の性癖だけを見させられるとか、ストレートすぎる変化のない怒りや怨念をぶつけられるだけの作品は好きではない。
深い理由があってやむなくその行動をとっている。その理由が見どころなのだ。個人的、社会的問わず、その理由が物語のメインストリートに変幻自在に存在すること。予想外の驚きもあればなおOKだがなくてもいい。自分にとっては理由の深さが一番重要。
この映画だとその辺の説明が無く、個人の性癖にとどまってしまったのが残念。阿部サダオというトリックスターをうまく使いこなせていないと思った。恐怖を与え、自らが進んで犠牲になっていくというトリックは面白かったが。
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映画を観たあとにアマゾンで何冊か本をポチる。心理学まわりの本を読みたくなって。それに付随して善悪に関する本も。イカれてるの一歩手前、人が逸脱していく過程に興味がある。そんな自分も普通ではないのだろうが、自分を掘り下げて知りたいと思うとき、どこで逸脱したのかということは重要な気がするのだ。
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