生命力の補填
2024.9.10。今日も仕事。クタクタの汗だくだった。体中の塩分が結晶化してキラキラするほどに。もし汗の結晶だけが鉱物のように美しく光るとすれば、夏の夜はキラキラした人ばかりが歩いていてさぞ美しいことだろう。特にエッセンシャルワーカーさんたちは汗の量もおおいだろうから、その分美しさが際立つことになる。可視化された仕事量に人々が尊敬の念を送り、それがコインとして勝手に貯まる。そんな妄想を退勤後のバスの中でうとうとしながら。
知らない人のnoteを読むこと。主に日記。情報はいらない。お得も、ハックも、海外の美しい景色も、100円ショップの工夫も、全部いらない。その人をその人たらしめている一日の中で起こる感情のダンスが見たい。スマホで文章を読む場合、読むというより見るの方がしっくりくる。後悔も諦念も大歓迎だ。自分だけがひっそりと歓喜する新しい発見や、未来へ少しだけ差し出された手の覚悟、迷いすぎて全く身動きが取れないことの緻密な描写も。言葉は乗り物である。乗れば何とか発進(発信?)する。ドライビングテクニックもどうでもいい。その走りの軌跡が見たい。
町屋良平『私の小説』を少し読む。連作短編のラスト『私の大江』が一番面白い。饒舌な語り、大江健三郎への揺るぎない愛、生きづらさがそのまま文章になったような気持ち悪さ。やっぱりこの作家とは相性が悪いなと確信する。しかし面白く読む。この面白さはある意味での共感ということだろう。鏡写しでページの文章の中に自分を見ている。
疲れ切って家に帰り、食事を作る気など起こらず、汗だくのままゴロンと横になって心の底からの安堵とともに、100%の『ああ疲れた!』を発する。床に放られた買い物袋には冷凍のチャーハンと餃子が入っている。油と茶色とカロリーの幸福な出会い。炒めて焼いてひっくり返す。焦げが美しい。タレに辣油、酢と胡椒。コッテリとサッパリを交互に味わいながら、今から過剰なエネルギーを取ってどうすんのよ!と一人ごちる。
40代半ばを過ぎてから、ずっと加齢と認識力について考えている。それを考えの中心に置くことで、認識力が上がる、もしくは下げ止まる可能性がありそうだから。さっきXのタイムラインを眺めていたら、詩のフレーズが広告に使われていた。たまたま目に止まったのだが、これ若い頃だったら、驚きつつ、こういうやり方があるのねと感嘆し、他にも使えるんじゃないかと想像が始まっていただろう。好きな世界が形を与えられて目の前に出現した時に、それを見逃さず、きちんと認識し味わうことができるか。加齢が枯れていくことだとすれば、葉や枝はどんどん落ちていく。一つ一つが水や光を吸収し生命力に変えていくのだから、その一部が欠けていくのは生命力の補填に不備が生じること。認識、感嘆、咀嚼、想像。この一連の流れをまだまだ諦めたくない。