神と同居する

純真さとはわたしたち人間がそこを通過し、あとに残してきて、二度と戻れない場所である。

シーグリッド・ヌーネス「友だち」


2024.8.13。自宅療養121日目。7:00起床。昨夜はぐっすり眠れた。北枕のままだが、エアコンの風量を強くしたからそのおかげか。睡眠時間も8時間と長い。普段は4〜6時間で、アホみたいに働いていた30代の頃は4時間のショートスリーパーだった。しかしあの熱狂の日々は何だったのだろう。いま考えると気狂いじみていたなと思う。

朝からルーティンをこなす。書き物と読書も含まれているので、頭が活性化する。それにつられて体もキビキビ動く。仕事をしてないのでゆったりこなしてはいるが、それでも充実感はかなりある。やる事が決まってるおかげで、必然的にシングルタスクになる。それがいい。いつもは何かをしている最中に別のことを思いついてそちらを優先し、元やっていた事に戻れないことが多々あった。話下手な人が、あれ?何話してたんだっけwと同じ。

ゴミをまとめている最中に部屋の模様替えを始めてしまったりする。本当ならゴミをまとめてから洗濯するつもりだったのだ。それがいきなり室内ぐちゃぐちゃで1時間以上あーでもないと家具を動かしまくる。これが偶然の豊かさなのだろう。模様替えがうまくいった時の快楽が半端ない。計算ではなく衝動的に動くことで快楽がやってくる。その感覚がインプットされている。言い換えるとアディクション、依存である。地図の無い道を闇雲に進むことは何を犠牲にしているのか、それをルーティンの力を借りて検証しようとしている。

日課やルーティンに関する本が欲しくなりブックオフへ。目当ての本は無かったが、面白そうな本を3冊買って、心が満たされる。

『センチメンタル リーディング ダイアリー』
『従順さのどこがいけないのか』
『自分を愛するということ』

買った本をサイゼリヤに寄って読み始める。隣の席に高校のラグビー部みたいなデカい連中がやってくる。肉と米をガツガツ平らげている様が美しい。若さと迷いのなさが夏の輪郭と同じく、くっきりと疑いようがない。あまりに眩しくて、こんな昼から酒を飲みつつ本を読んでいる自分が恥ずかしくなって、そそくさと退散する。

佐々木ののか『自分を愛するということ』にこんな記述があった。

猫との暮らしは素晴らしい。生活すべてが贈り物になる。昼夜を問わず鳴かれても、布団に嘔吐されても、顔を踏まれても、仰向けに寝た私の上に乗ったまま顔に向けて排便されてもかわいい、としか思わない。何もかもがファンサービス。猫のしでかすすべての所業が愛おしい。猫が触れた世界は瞬く間に愛おしいに感染する。猫こそ、世界の支配者だ。

佐々木ののか『自分を愛するということ』

自分も犬を飼っていたのでよくわかる。犬と猫の違いはあれど、愛おしさは同じだ。ブサイクな上目使いでこちらの様子をうがっている感じも、仕事から戻って玄関を開けたら全力で尻尾を振って出迎えてくれることも、雷が鳴っているときに恐怖で震えながら、全存在をかけて自分にしがみついてくる時も、全てが愛おしかった。時々泣きそうになることもあった。迷いのない、真っ直ぐに生きているこの小さな生き物そのものに感動していたのだろう。動物がいるが故に意識させられる人間という属性が、同じ室内ぬいる動物と共存し、様々な光景を目の当たりにして心が動くこと。この奇跡的な時間は、まさに犬が世界の支配者であり神であることを証明している。

別れてしまった妻とはもう会わなくていいが、犬とは会いたい。その気持ちが残っている。そして犬を連れた妻となら会ってもいいとも思う。ヌーネスが言うとおり、純真さという二度と戻れない場所、そこにいるのが動物なのだろうか。川のほとりに立ち、対岸を眩しく見つめている自分がいる。



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