同性愛者はいない。
ただ、同性愛行為があっただけ…という指摘をしておきたい。
LGBTQ+という言葉が世に浸透して久しい。
SNSが発達し、文明がより高度化し、人類の知性も向上した。
これによって、以前はマイノリティとされていた、男女以外の性という考え方が、広く理解され始めている。
その、広く理解され始めている一端として見えるのが、このLGBTQ+という言葉である。
LGBTQ+に該当する人々も、この言葉を使い、そうでない人々もこの言葉を知っているし使う。
しかし、この言葉の誕生を考えてみると奇妙なのだ。
LGBTQ+という言葉が世に出て使われる以前も現在も、世の中の圧倒的多数は、LGBTQ+に該当する人々を、マイノリティとして区別している。差別されていることもある。あくまで、アブノーマルであって、ノーマルではないことは多くの人が体感的にも理解できるだろう。
そもそも、この世界は男と女という2つの性を前提として歴史を進んできた。
この2つの性に当てはまらない人は、ゲイ、バイ、オカマ…といったカテゴライズで区別、または差別されてきた。
人間は、そもそも名前を付けたがる…つまりラベリングしたがる生き物で、そうすることで世界を認識してきたという事実がある。
ラベリングすることで、「これは〇〇で、ほかでもない〇〇だ」という制限を行う。制限を行うことで、他と区別ができるようになる。
つまり、ゲイ、バイ、オカマ…といった言葉は、男と女、という世界の大前提から溢れた、漏れた、入れなかった人たちを押し込めるのに用意された場所なのだ。
LGBTQ+という言葉は、多様化した(ように見える)性を押しやるのにちょうどいい部屋として用意されたと考えることができる。
多様化した…ように見える、と書いたのは、実は以前から性は多様に存在していたが、最適な言葉(カテゴライズ)やそれを理解される知的レベルになかったとする考えが自然だ。
言葉は制限である。多くの世界を識別できるようになる半面、言葉のない部分は見えなくなるのだ。諸刃の剣といえる。
男、女という言葉があることで、それ以外の性が見えなかった…認識できなかった。
男色という言葉があるように、以前から同性愛同士による行為はあったのだ。
ここで注意を払ってもらいたいのが、「同性」による行為があったとしても、あくまでそれは行為だったということ。
同性行為≠同性愛者なのだ。
LGBTQ+といった言葉ができる以前の人々の認識は、同性行為でしかなかったのだ。つまり、タイトルにある通り、同性愛行為はあったとしても、同性愛”者”は存在しないのだ。
言葉が発達する…つまり同時に文明と知性が発達することによって、男、女という枠組み収まらない性があることが認識され、それを識別するためにゲイ、バイ、オカマ…といった言葉が生まれる。
さらに、ゲイ、バイ、オカマ…といった言葉に当てはまらない性が認識され始め、LGBTという言葉がまずできて、そのあとに追加される形でLGBT[Q]ができ、さらに多くの性パターンがこの世界にはある、ということで「+」という記号がついた。
男、女という言葉がなければ、性に関する認識はもっと寛容的だったかもしれない。
私たちは男、女という基本的な単語によって世界を識別しているのだから、それに当てはまらない人の存在を見ると、不気味なのだ。不気味だから、名前を付けて、カテゴライズして安心したがる。
いわば、物理的な隔離ではなく、概念的な隔離がここに見て取れる。
LGBTQ+という言葉は、むしろ排除される人々を指すために生まれた言葉として捉えられる。
この言葉を、排除される人々の当人たちが使っているという状況は、奇妙である。
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