生産現場におけるKAIZEN活動は、資本家と労働者間における搾取の構造
カールマルクスによれば、労働者が生み出した余剰…時間、価値──もっと現場に即して言うなら、作業者が生み出した手待ち時間…は、資本家によって搾取される構造となっている。
生産現場における作業者は、はじめこそ習熟度が不足しているため、規定された作業時間をオーバーするか、または上限いっぱいに消費されるが、同じ作業を行っていくと習熟度が向上し、規定された時間内またはそれよりも早く作業を終えられるようになる。
これは人間に備わっている適応能力のなせるところだが、工場はこの人間特性を利用して、大量に工業品を安定的…品質、時間当たりの生産台数…を確保している。
多くの生産現場は、「KAIZEN活動」と称し、作業の無駄を見つけ、改善し、さらなる効率化を目指す運動が存在する。
端的に言えば、作業者の生み出した・所有している手待ち時間は、さらなる作業量の増加に割り当てられる。規定作業時間が過不足ない状態だったとしても、どこかに作業の無駄があって、作業時間を短縮可能である、という解釈がされる。
結果的に、作業者はどのような場合においても、常にKAIZENという名の余剰搾取に晒されることになるのだ。
これらの事象は、まさにカールマルクスによって提唱されていた、労働者が生み出した余剰は資本家によって搾取される──構図である。
KAIZEN活動を行っている工場を俯瞰してみると、全体的に同一時間内での生産性は向上することが見て取れる。つまり、KAIZEN活動を行っていない工場と比較して、時間当たりの生産台数が増加し、それは収益の増加となる。
ただし、興味深いのはKAIZEN活動を推し進めている現場、上層部問わず、これらの運動がマルクスによって提唱された労働者の生み出す余剰を搾取する構図であることを認識していないことだ。
もしかすると、KAIZEN活動という運動が発足した当初は、いかにして同一時間内に大量の生産を行うか、という着眼点においてマルクスの哲学が意識された可能性は考えられる。
しかし、時がたつにつれて、KAIZEN活動にある根底の思想は忘れられ、作業者にとって働きやすい環境…という名のもとに、記憶のかなたにいってしまったに違いない。
このKAIZEN活動が巧妙なのは、作業者の労力を減らすという理由を提示しておきながら、実は作業者自身の生み出した余剰を許さず、さらなる作業量を付与することにあり、これらの運動が極めて認識できないことである。
KAIZEN活動が当たり前、という前提で教育が行われるため、誰しもがこの搾取の構造に気づかずにいるのだ。
哲学は、この世における秩序を見出し、考える学問であるが、哲学をもって…一見して哲学とはまったく無縁そうな空間においても、哲学的思考を通して空間を捉えれば、不変の構造・原理が浮かび上がってくるのだ。
このコラムが言いたいのは、だからといってKAIZEN活動が不当なものであるという糾弾をしたいわけではない。正義か悪かというような、二項対立は思考停止を招くだけで、哲学者のジャック・デリダも指摘していることである。
脱構築をしよう。多くの人が労働者の域を出ないから、だからこそもっと搾取される側を肯定し、そして労働者一人ひとりが目の前の作業…仕事に対して意味付けをしよう。
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