見出し画像

実存は、本質に先立つ

実存主義を唱えた、ジャン・ポール・サルトルの言葉である。
まず、存在というのがあって、何であるかを決める本質が後に続くことを言っている。

例として、車の本質は、走る・曲がる・止まるの3つで、これは車が存在しないとこれらの本質は現前しない。

走って、曲がって、止まる…を満たす本質のもの…という思考からスタートしても、車は出てこないのだ。

いま、車とは何か?を知っている我々が、この本質から実存を考えるのは極めて難しい。

~ペーパーナイフとは異なる人間の存在~

サルトルの有名な話で、ペーパーナイフの話がある。

「ペーパーナイフは紙を切るというのが本質で、そのために実存している」

つまり、カッターナイフは、ものを切る本質を実現するためのツールであり、そのほかの何物でもないということだ。

しかし、人間にいたっては、まず現実に存在する(実存)というのがあり、あとから自分が何者であるのかを定義すること(本質)ができるのだ。

これは人間のみに与えられた特権と言ってもいい。

人間以外の動物は、自分が何者であるのかを定義できるような意識が存在しないので、本質を定めることができないのだ。

私たちは今、恵まれた環境に生きている。

物質的、精神的に豊かになり、技術が発達して、インターネットを軸に多くの人が繋がれるようになった。そして、やりたいことを躊躇せず挑戦できるようになった。

何者でもない私、から、私は何者である、という定義が昔よりはるかにできるようになった。しかも、その定義はいつでも変化してもよい。

昨日、何者だった私が、今日は何者である、ということができるのだ。

自分が何者であるのか、その本質は、いつだって自分の意志で決められる。しかもその本質は、他人によって決まらない。

デカルトが言っていたように、あらゆるものを疑ってみても、最後に信じうるものは、その疑いをかけている自分自身しかいないと。他人の存在ではないのだ。

よく言われることで、「他人は変えられない」というのがある。これも、いわば他人を変えられない、変えられるのは自分だけ。つまり、他人はあくまで他人なのであり、自分がどう思うか・解釈するか・考えるか・選択するか…ということを言っている。

多くの人が世界中へ、瞬時に接続できるようになり、SNSが発達して誰もかれもが自己表現できるようになったことで、以前よりも個が埋没しているように感じられる人も、サルトルの実存主義を垣間見ることで、少しばかり勇気づけられるのではないか?

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?