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正義は存在しない

全ての他者に、その特異性において同時に応えるのは不可能なのだから、どんな決定も、どんな人も、どんな制度もルールも、十全(十分)に正しい、正義であるということはない。
つまり、このことから「私は正義である」「これは正義である」といった場合、自ら不正であると暴露しているのだ。

デリダ 脱構築と正義 高橋哲哉・著

このように難しく説明をしなくても、身近に「正義は存在しない」という事例を見つけることができる。

例えば、戦争。

戦争は、争っている国ごとの「正義」がぶつかりあっている事象だ。

そもそも、人間は個々において、それぞれの置かれた立場が異なり、また育ち方も異なり、経験している内容も違う。それゆえに、同じ現実を見ていても、解釈が存在する人間の数だけある。

ある人は正義といったことも、またある人にとっては不正であり、不正と解釈している人がいて、それを正義だと解釈する人もまたいるのだ。

個々の、唯一の人間が集まり、不完全な言語を用いて決定を下し、制度を制定し、ルールを作ったところで、それが全員にとって正しい結果へと導くものとはならないのだ。

しかし、一般的に正義と言われる制度やルールは、多くの人にとって有益であるように考慮されているが、一部の人にとってその利益を享受できていない現実も、またある。

最大多数の幸福は、正義であるか?

最大多数にこぼれた、少数の存在は、どのようにして救済すればいいのだろうか。

哲学者・池田晶子の言葉にこんなものがある。

あのアメリカの大統領は、どこまでも自分が正しいと思っている。「正しい」すなわち「正義」である。「正義の実現のために」と、臆面もなく口にする。そして、こう続けるのである。「──武力行使も辞さない」と。自分たちの正義は、誰にとっても正義なのだと思い込んでいるから、それを人に強制するという、あの所行に出るのである。
これだからものを考えない人間は困ると、考える、内省する習慣をもつ人間なら思う。自ら語る言葉に騙され、操られている指導者の姿を、空疎なものとして眺める。正しさは、経験に出会うそのつど、自らのうちで、静かに計られ、納得されるものでしかあり得ないからだ。
──『勝っても負けても』

『大統領は正義の人だ』 絶望を生きる哲学 池田晶子の言葉

正義は結局のところ、個による自己満足なのだ。多数の人が、それを正義だと思っていても、あくまで同じ考えを持つ個が集合しているに過ぎない。だから、正義は数量で判定できない。多いからそれが正しいということではないのだ。

自分が自分の選択に納得する。それを他人には押し付けない。押し付けなくていいのだ。
実存主義のサルトルによれば、ある人がした選択は、人類を一歩、その選択の方向へ進めたことになると言っている。

だから、正義を振りかざす必要なんてない。そもそも正義なんて言葉は存在しても、実在はしないのだから。

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