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決定不可能なものを通過しない決定は、自由ではない

話し合いにしても、自己の決断にしても、決定不可能なものを通過していない決定事項というのは、自由ではない。

決定不可能なものを通過…つまり選択肢の中で不可能とされるものを検討し、採択しようとする前向きな姿勢が存在しうるからこそ、自由は存在する。

「正しい決定とは?」~計算する機械になるな~

「正しい決定」とは、客観的な基準に基づいたものでありながら、同時に個々の状況に合わせた柔軟な判断を伴うものであると言える。

決定に至るプロセスにおいては、何らかの規則や基準が不可欠です。これにより、恣意的な判断を排除し、決定の透明性を確保することができる。
しかし、既存の規則を盲目的に適用するだけでは、その決定が本当に「正しい」と言えるだろうか?

例えば、裁判官の判決は、単に法律条文に照らし合わせて合法的であるというだけでは不十分である。
裁判官は、個々の事件の事実関係や当事者の状況を深く考察し、既存の法解釈を再検討する必要があるのだ。

いわば、裁判官は、法律を「計算する機械」ではなく、法の価値を創造し、それを個々の事件に適用する「解釈者」としての役割を担っているといえる。

このことは、他のあらゆる決定にも当てはまる。私たちは、常に変化する状況の中で、既存の枠組みを超えて、新たな価値観や解決策を見出す努力をしなければならない。

このことは、善悪をAIに判断できるか?という話にもつながってくる。

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