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おとなになるとき_博論日記(2023/12/10)

2024年3月31日の学位論文提出(目標)まで、あと110日(この目標については二転三転中)。

朝バイトを終えて大学にやってきた。誰もいない研究室で味噌汁をチンして食べる。静かだ。
昨日のバイトでは、棚に商品を並べている時に何度もまぶたが落ちてきて焦った。今日はそんなこともなく、淡々と作業することができてほっとしている。
今週、1時起きできた日は2日間だけだったが、バイトで眠くなってしまうのは非常に困る。これでよしとしよう。

今日は、先週の続きの報告とタイトルに関連したとりとめのないことの2つのテーマで書こうと思う。

■先週の続きの報告
①ゼミ発表(12/22)
指導教員の先生と相談して発表テーマを決めた。まだゼミで発表したことのなかった、すでに発表した論文Aの内容を扱うことになった。
今まで発表していなかった理由は、それが質的データに関するものであり、量的データを解析している人が多く参加しているゼミで発表するのは、フィットしない懸念があったからだ。
だが、論文Aは博論の一部だし、最後のゼミ発表(来年度は退学もしくは在学延長したとしてもゼミには出ないので)でもあるから紹介しておきましょう、ということになった。
投稿論文の修正を抱えながら準備するにあたっての感覚的な難易度としては、五段階評価で三程度だと思う。ラクではないが、できないことはない。15日頃に投稿論文の修正版を共著者に送って、それが返ってくるまで少し時間ができるはずなので、そのタイミングでやるしかない。ふひー。

②『大阪の生活史』
語り手さんに本をお渡ししてきた。やはり第一声は「大きいわね。この半分くらいかと思ってた」という、本の大きさの話になった。そして中身を見て「けっこう1人分が分量あるのね」「150人分あったらこの厚みになるわね」とおっしゃっていた。「これでもお話ししていただいたことの一部ですから」「そうだったわね」などというやりとりの終わりに、「〇〇ちゃんとの楽しい想い出のひとつになりました。ありがとうございました」とのお言葉をいただいた。それを聞いて、本当にほっとした。

プロジェクト開始当初、私と語り手さんの関係性は近しいものではなかったので、アポイントメントを取るところから完成した出版物をお渡しするまでの1年強の期間を通じて、徐々に関係性を深めていくこととなった。
時系列的に言うとインタビューは初期に行っているので、まだお互いに緊張していた。実は、できあがった生活史も、それを反映してかしこまった雰囲気になっている。
関係性を深めながら何度もインタビューを重ねる、ということができたら一番よかったが、お互いの都合でそれが不可能だった。残念だが、仕方のないことだったと思っている。
そのかわり、「語り手さんチェック」の必要な工程の際には必ずお会いしに行ったし、本の主旨と語り手さんの希望を擦り合わせることには心を砕いたつもりだ。
ただ、その結果としてできあがったものに対して、語り手さんはどのようにお考えになるのか。語り手さんにとってせめてマイナスとなりませんように、願わくば好もしいできごとになれば、とドキドキしていた。
だから、「〇〇ちゃんとの楽しい想い出のひとつになりました」と言う言葉をいただいて、とても嬉しかった。プロジェクトを通じて深まった関係性だが、プロジェクトを終えた今後も、のびのびと関係を続けて行きたい。
ご挨拶後、おすすめしてもらった明石焼きをほおばりながら、そう思った(梅田から三宮に転勤なさったので、明石焼きの老舗を紹介していただいた。「私は外側がパリッとしていて中側がフワッとしたたこ焼きの方が好きなんですけど」と笑っておられた)。

■おとなになるとき

今日のトップ画は、アーサー・ランサム全集、全12巻の背表紙が並んでいるところだ。附属図書館でこの光景を目にした時には心臓が小さく跳ねた。
アーサー・ランサム全集は小学生の頃に夢中になって読んでいた児童文学で、舞台はイギリス。全12巻ということでいろいろなシチュエーションがあるのだが、端的に言うと、子どもたちの冒険物語だ。地元の図書館で何度も借りて読み、第1巻から第4巻までは家にある。全12巻を集めることはできなかったが、地元の図書館に行けばいつでも借りられるからと安心していた。
ところが、10年ほど前に久しぶりに地元の図書館に行って驚いた。省スペースのためだろう、単行本ではなくなり文庫版に入れ替わっていた。もう、このトップ画のように12色の帆船が並んでいる様を見られなくなってしまったのだ。
だから、久しぶりにこの並びを見て、懐かしくてとても嬉しくなってしまった。

ということから、「おとなになるとき」に話をつなげたいのだが、うまくいくだろうか。
以前、児童文学の話を導入にして、「おとなになること、変わること 〜ナルニアに行けなくなったスーザンを思って」というnoteを書いた。その時、次のように書いた。

「でなければならない」、「変わることは怖いことだ」という考え方では、もう生きていくことがむずかしい。おのずから変わっていくのが人間だ、生き物ってそういうものだと思うようになった。

「おとなになること、変わること 〜ナルニアに行けなくなったスーザンを思って」

私の人生のなかで「でなければならない」や「変わることは怖いことだ」はいろんなところで登場するのだが、顕著な例が、

 「私は「〇〇の研究をしたい」という子どもの頃に抱いた夢に対してベストを尽くさなければならない」
 「そういうベストを尽くしていることこそが自分を自分たらしめていて、そうでない自分に変わることは怖いことだ」

である。

実は昨日、ある先生に博論提出後の研究相談にのっていただいていて、〇〇(この動物種の名前を書くといろいろわかってしまうので伏せさせていただく)にこだわりすぎていてはこの先に繋がらないと言われた。もっと問題を一般化しなければならないと。そのためにも、他の動物に目を向ける必要があるのではないかと。

それに対して、私は咄嗟に次のように答えた。

 「〇〇にこだわってきたのは、子どもの頃からの宿題をクリアするというミッションがあったからで、〇〇が他の動物と比べて特別な動物だと思っているわけではないです」(個人的には〇〇は重要な動物となってしまっているが、個人的なことを離れて、そもそもすべての動物は等しく重要だとも思っている)
 「ただ、〇〇に恩返しはしたいと思っています」

それを聞いて、その先生は「今のあなたのフィールドそして〇〇という生き物を研究し続けるためにも、他のフィールド・他の動物に目を向ける必要は絶対にあると思います」とおっしゃった。

先生と別れて、歩きたい気分だったので地下鉄2駅分歩いた。その時に考えたのは、「〇〇研究を(一旦)離れて初めて、私はおとなになれるのかなあ」ということだった。
9歳の時からずっと、ずっと〇〇のことを考えてきた。それは純粋な興味から、いつしか「でなければならない」や「変わることは怖いことだ」と絡まって、学術的興味とは異なる個人的な問題になってしまった。
でも、プロとして研究を続けることは、おそらく個人的な問題に終始していては立ち行かないのだろう。「子どもの頃からの宿題をクリアするというミッション」の、その先の世界を見るものなのではないか。

きっと「子どもの頃からの宿題をクリアするというミッション」は博士論文で決着がつく。いや、つける。そして、おとなになろう。
おとなになる、ということの意味を、以前のnoteで私はこう書いている。

覆われて一見わからなくても、(子どもの心を)芯に持ちながらおおきくなっていったらいい。安心してぐいぐい変わっていってよい、芯には残り続けるものだから。

子どもの頃の自分が芯にあり続けることを嫌悪する人もいるのだろうと思うと、この考え方がよいのかはわからなくなる。けれど、それもひっくるめて、ぐいぐい変わっていってよい、ということなのかなと考える。どれだけ愛しい自分も、嫌悪する自分も、今の自分と完全に切り離すことはできない。だからこそ、変わっていく自分を楽しめばよい。すべての人に受け入れられる考え方ではないかもしれないけれど、わたしはこの考え方をとろうと思う。

「おとなになること、変わること 〜ナルニアに行けなくなったスーザンを思って」

変わろう。
そして、いつか「人間と野生動物(もちろん〇〇含む)がなんとかかんとかうまくやっていくこと」に対して、微力なりとも恩返しをするのだ。

余白に。

とうとう六角堂のイチョウが鮮やかに色づいた。今年も綺麗だ。これを見れただけで、今週はよい週だった。

六角堂のイチョウの木。光の具合で黄金色に輝く

もう一枚、今週撮った写真のなかからお気に入りを紹介する。
平日、朝10時半頃。寺町通りではいくつもの店の人々が、開店を前に店前を掃き清めたり、ガラスを拭いたりする光景が見られる。
散歩をしていてふと視線を感じ、あたりを見回したところ、「五色豆元祖 船はしや総本店」さんの店内からネコが通りを眺めていた。
ふっくりとしていて、ふさふさで、腰が据わっていて、存在感がある。「ここのおうちでだいじにされている子なんだなあ」と、よいものを見た気になった。

店内から通りを眺めるネコ

<To Do>
・投稿論文1:修正(12月31日〆切)
・投稿論文2:修正(1月31日〆切)
・ゼミ発表:12月22日
・システマティック・レビュー:二次チェック中
・博論本文:
 3月31日?(予備審査委員会立ち上げ願い)
  5月予備審査?
  7月口頭試問?


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