【エッセイ】言葉で旅するイタリア
何年も前の話になる。
外国語を勉強するのは苦手だけど、コミュニケーションツールとして活用するのは意外と得意かもしれない。……ということに、英会話講座を受けて気付いた。ネイティブの先生とのマンツーマンレッスンで
「『もし猫に翼がはえていたら空を飛べただろう』みたいな、絶対にありえない仮定とその結果を反実仮想(みたいな単語)といいます。アキラ、何か例文をつくってもらえる?」
のようなことを先生に言われて(ざっくりとしかリスニングできないから細部は違うかも)、
「オッケー。『もし私が料理上手であれば彼氏ができるはずだった』」
って言ったら馬鹿ウケた。
外国語でコミュニケーションをとる面白さに気付いたのがきっかけで、海外旅行に行きたいと思うようになった。旅先はイタリア。まさかの英語圏じゃない。
10代の頃に少しイタリア語を勉強した時期があって、その時は英語よりイタリア語の方が得意だった。勉強を強制される英語と違って、イタリア語はいくらできても得しない。それが自由でいいなと思ってて、英語より楽しく学ぶことができた。
日本から飛行機を乗り継ぎ、フィレンツェやヴェネツィアを訪れた。観光地なら英語や日本語を話せる人も多い。けど、私はできるだけ現地の言葉を話すように心がけた。「ファニー!」と爆笑する先生の顔を思い出せば「大丈夫、いける」と思えた。言語はコミュニケーションツールにすぎない。人との会話は試験じゃないのだ。
東洋人の私がイタリア語を話す様子は、現地の人にはだいぶ珍しく見えたらしい。確かに西洋人が日本語で話しかけてきたら「えっ!」とびっくりするし、同時に嬉しくなる。日本語勉強してくれたんだ! って。そういう衝撃を、私が誰かに与えてるってことが新鮮だった。
「イタリア語話せるんだね!」とジェラートにチョコレートをサービスしてもらったり、道を聞いた人に「スリには気をつけなよ!」と言ってもらえたり、イタリア語を勉強していたからできた素敵な思い出がたくさんある。特に印象的だったのは、レストランで「ブラビッシモ」の正しい用法を教えてもらった時のことだ。
「この料理おいしいね」と言うのに「ボ―ノ」以外の表現を探したくて「ブラビッシモ」と言ってみたら、ウェイターの男性が「ブラビッシモは、物に対しては使わないんだよ」と教えてくれた。ブラビッシモは「ブラボー」の強調表現だから、料理に対してブラビッシモと言えば「最高においしいよ」と伝えられると思ったのだ。ところが用法が間違っているらしい。伝わればいいと思ってめちゃくちゃに喋っていたから、正しい文法を教えてもらえるのはありがたかった。
ウェイターの彼によると、ブラビッシモは人に対して使う言葉で、物には用いないらしい。なるほど。だからミュージカルとかバレエとかクラシックコンサートに行った時、観客は「ブラボー!」と叫ぶのか。あれは人に対して言っているから文法的に正しいのだ。でも、料理に対して「ブラボー」やその派生の「ブラビッシモ」を使うのは違う。へえ~。私が感心していると、ウェイターの彼は言った。
「いい? バンビーナちゃん(『子鹿』という意味。たぶん『半人前』みたいなニュアンス)、ブラビッシモはこうやって使う。ブラビッシモ、カメリオ! 言ってみて、どうぞ」
「カメリオって何?」
たしか「カメリア」は椿だ。でも最後の音は「ア」ではなかったし、もし「椿」だとしたら「ブラビッシモ」を物に用いることになってしまう。単語の最後は「オ」に聞こえた。たぶん男性名詞だ。椿を男性名詞化した単語? どういう意味だろう。「ブラビッシモ、カメリオ」と発音するよりも先に私は「カメリオ」の意味をたずねた。
ウェイターの彼はテーブルの花瓶からミントをちぎって葉の断面の匂いを深く吸い込んで、ミントの葉を無造作に散らしながら答えた。
「俺の名前さ!」
間髪入れず私は爆笑した。「ミオ」が「私の」で、「ノーメ」が「名前」であることは忘れていたけど、この会話の流れ、そしてカメリオの動作から、二つの単語が何を意味しているのかすぐにわかった。椿くん! スマホで調べると「ブラビッシモ」を男性に対して使う場合は「イケメンの」という意味になるらしかった。イケメンのカメリオ! 彼はそう言わせたかったのだ。
調子に乗った私は行く先々のレストランで「私このレストラン気に入ったわ。料理はおいしいし、(ウェイターの名前)はブラビッシモだし」を連発した。突然店内でカーニバルでも始まったかと疑うような盛り上がりを見て、イタリア語を勉強して、イタリアに来てよかったと思った。別に逆ナンしていたわけではなく、太ってるおじさんにも言ってた。おじさんたちもカーニバルみたいなはしゃぎ方をしていたので国民性なんだと思う。
帰国してから、イタリアでイタリア語を話している時の自分より、日本で日本語を話している時の自分の方が大人しく落ち着いていることに気付いた。土地と言語と国民性は密接に結びついているのだと思う。つい最近まで手を振りながら「チャオ!」と言ってた自分が「おはようございます」「お疲れ様でした」とペコペコしてるのは奇妙な気もするし、同じ人間なのに土地と言語が変わるだけでこんなにも変わるものなのかと自分で自分にびっくりした。またイタリアに行ってイタリア語を話したいなと思う。けれど同時に私は、日本語で話したり日本語で書くことが、もっと好きになったのだった。