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出かける

私の家は居心地が良い。

人はどうか知らないが、私のいる空間は私にとって心地の良い空間を作っているから居心地が良いのである。

整ったところも散らかったところも全てが心地よい。何もかも私のなすがまま、裸の王様で良しとして夏の盛り以外は、まるで皮膚の如く褞袍を纏って、亀のように潜り込んで暮らしている。

仕事も食える限りで良い、食えなくなったら野垂れ死だ、そんな大口を叩きながら実は密かに野垂れ死を恐れているのであった。

野垂れ死は嫌だと思いたてば、時には甲羅から顔を出して、その姿晒し、淡交が途切れぬように努めなければならない。野垂れ死にたくなければ飯を食う金を稼がなければならない。ああ面倒だと、それはそれは半月ほど前から憂鬱であった。出かけるのは毎回憂鬱なのだからさっさと諦めれば楽になるものを、その都度反応して、憂鬱を無用に膨らますのが世間知らずの亀のやることであった。


亀は東京に行った。

普段は緩慢なのに都会に行くと途端に早足で歩いている。田舎で極端に広げたパーソナルスペースに、次々と他人が入ってくる事に動揺して、後ろから追い立てられていると勘違いしているのである。むやみやたらと先を急ぎ、結果必要以上に移動して疲れ果ててタクシーに乗ったら乗ったで気疲れしている。

それにしても都会人は行儀と程が良い。あの亀の巣のような実際に用意された空間がなくとも、各々で空間を作り出し寛ぐ術を知っている。電車の中で、公園のベンチで、飲み屋で、カフェで、限られた空間の中でそれぞれのパーソナルスペースを見事に作る。見えないラインは複雑だが整理整頓されて張り巡られている。ピンと張ったラインもヨタヨタと弧を描くようなラインも当たり前に混在して、皆それを見分けている。

やたらと大きな荷物を持ち、ふうふうと息を切らしながら移動する自分はまさに亀の引っ越しである。荷物を開けてみれば、わずか数日の外泊でいかに快適に暮らすかという亀の巣からもってきた無用な備品が所狭しと陣取っている。(ビジネスホテルでそれを広げた時はウンザリする気持ちと安堵する気持ちで自暴自棄になりそうである。)

都会人のスマートな振る舞いを眺めるうちに、自分が酷く滑稽で本当に亀のような姿形のような気がしてくる。大きな甲羅を背負って恐る恐る顔を出し、短い手足で緩慢に進み、時にその手足はバタつきながら空を掻く。その後ろを何食わぬ顔で通り過ぎていく洗練された振る舞いの人々。そんな自虐的な想像はかえって自分を安心させ、時に快楽さえ感じさせる。私は亀だと分かっているのだ、という事で、かろうじて高みに立っているつもりの姿はいよいよ惨めで、誰の目にも止まらぬ亀の電車の窓に映ったその姿は、妙に老けていた。

足りないものは何もない。

外泊先のホテルは快適で、仕事も滞りなく済み、何の不満もない。結局憂鬱の正体はなんなのかと言えば、ただ我儘がきかないという事に尽きる。私も都会に住めばあのように振る舞えるようになるのだろうか。

帰りの新幹線の窓に映る亀の顔もちゃんと老けていた。映った老け顔の向こうで猛スピードで景色が流れていく様が妙に可笑しく馬鹿らしかった。亀がこれ程の猛スピードで帰ることになんの意味があるのだろう、ただ亀の巣にもどるだけなのにと、味をしめた自虐の楽しみをいつまでもしがんでいる。

帰宅した自宅は、締め切った空気がこもっており、巣の匂いを濃くしていた。思ったより散らかって薄汚れている気がした。

椅子の背には乱雑に褞袍がかかっており、まるで脱皮した抜け殻が打ち捨てられているようであった。抜け殻は薄く薄く埃をかぶり、輪郭もボリュームも色彩も曖昧で、何かの象徴のようだ。この抜け殻の様子が家の全ての空間に広がっている。なんとなく恥ずかしいものを見てしまった気がする。果たしてこんな風だったろうか。本当にこれが私の快適?とよぎったが、何かを思うことも出来ない。

疲れ果てて、ぺたりと床に座り込めば途端に眠気がきて、リビングの比較的柔らかいものが敷いてある床に倒れた。都会用の亀の七つ道具を入れた例の大荷物を玄関に置いたまま。

力尽きた亀は、死んだように眠っている。

目覚めたら、再び薄汚れた抜け殻を纏い、また王様のように振る舞うのだろう。その時には、それを滑稽と思うこともない。平べったく眠る亀の周りには、亀だけが大切にしている家具や本や物が、じっと囲んでいる。いつか目覚めることを待つわけでもなく、ただ静まり返りそこにあるのだった。





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青乃
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