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中年愚日記

小学校に入学した時、自分が卒業するなんて想像できなかった。この新品のツルツルのランドセルが使い込まれる日がくるなんて。

小学六年生は大人だと思っていたし、その上に君臨する先生はその延長にない別次元の大人、校長に至っては最早バーチャルだった。そのうち、私も六年生になった。一体自分は本当に小学校を卒業して良いものかと、自分の名前の書かれた上履きを見ながら、ふと不安になった。私が一年生の時に見た六年生はもっと大人だったから。

それと同じく20代の頃は、自分がまさか中年になるとは思わなかった。別次元と思っていた先生ならば今やベテラン、あのバーチャルな校長の背中さえ、霧の向こうに、ぼんやりと見えている。

先日、また誕生日を迎え、書類に書く年齢の項目の数字はいよいよ貫禄がついてきた。相撲の番付の文字のように太くどっしりとした圧を持って眼中にめり込んでくる。年齢は数字に過ぎないとか、今日が一番若いから、とか色々なポジティブが世に溢れているが、そんな事よりも数字の重みとふと己を内省したときの落差が気になる。え、こいつが?と自虐的に頭のてっぺんを人差し指でグリグリやりたくなってしまう。(頭のてっぺんには自律神経が整う百会のツボがあるので一石二鳥でもある)

そんなめでたい誕生の日に私は仕事のことでたいそう悩んでいた。

悩むという状態はただのモラトリアムで、結局は選択を引き伸ばしているだけである。AかBか、やるかやらないか。中年となると最早悩んでいる暇はないが、思いと行為は裏腹で、そんな暇ないんだよなーと思いながら布団の上でゴロゴロしている。どうせゴロゴロするなら、しっかり怠惰に浸かってNetflixなどを見てスナック菓子を食い、現実逃避でもしていればいいのに、よく考えたらNetflixには登録していなかったしスナック菓子も胃もたれするので食えない。

気持ちを切り替えず、かといって行動も起こさずゴロゴロしていると、過去の嫌なことが入道雲のようにムクムクと細かいデティールの立体感をもって現れてきて、そのくせ怠惰なので内省ではなく最終的には愚痴、怨恨、逆恨み、というこの世で最も嫌なオーラを纏いだす。長く生きているせいなのか私の性質なのかオーラはいとも簡単にミルクレープのように何層にも重なってくる。そのうちに「層がある」ということに説得力を感じ出し、気づけば思い込みという名の結論めいたものに支配されている。最終的には。うたた寝をして、悪夢を見てガバと目覚める。自業自得とはこのことである。

首の辺りがベタベタしている。

あー、夢でよかった。と、のび太の台詞のようなことを思いながら台所に行き、ゴクゴクと水を飲み、料理をするのも面倒だと、またもや怠惰にyoutubeをひらくとお坊様がお話ししているサムネイルが目に入った。視聴履歴が反映しているに過ぎないのだが、こんな時はそれが逆にお告げっぽく見えるなぁと己の客観性に悦にいっている。

「他人の過失を見るな、自分のしたこととしなかったことを見よ、私の好きな仏陀の言葉です。」

ついさっき愚痴と怨恨にまみれて、シルクハットの怪人に追いかけられるという悪夢をみたばかりだったので非常に身に覚えがある。その通り全くその通りだ、鼻息も荒く散らかった机の上を片付けて、硯やら半紙やらをゴソゴソと出してきて墨をするのは面倒なので墨汁をドバドバとだして、書いたのだった。

「他人の過失を見るな、自分のしたこととしなかったことを見よ」

最初の「他」の字を勢い余って大きく書いたので、尻すぼみに字が小さくなって、ダサい感じになった。でも書いたらなんとなくやり切った気がした。やり切っていないのは分かっているけどそういうことにしておいた。

この度の問題は先送りである。私にとっての先送りというのは、AかBか、やるかやらないか、の中から、「ひとまず今出来ることはやる」を決断せずに選ぶ。やらないという決断を出来ないから行為で不安を無きものにして平素を装っている。

年齢は数字に過ぎない、今日が一番若い。

こうやって私はバーチャルになっていくのだろうか。バーチャルも一色でないのだと、今になるとようやくわかる。

誕生日ありがとう。今年の目標は運動を習慣づけること。





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青乃
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